鬼火姫〜細工師の契約婚姻譚〜
2話 ご飯って偉大!
翌朝、敷布の上で寝返りを打った凛火は、くんくんと鼻をひくつかせた。
何やら良い香りが漂っている。
(これは…。これは!お味噌汁!)
ガバッと身を起こす。香りは部屋の外から漂っていた。
乱れた着物を脱いで、着慣れた着物に着替える。
薄香色の生地に淡い花の意匠が染められた衣を着る。その上から焦茶の上着を羽織った。あちこちに跳ねる錆色の髪を解かして結い上げ、簪で固定する。
簪は凛火の力作だ。飴色の光沢を放つ簪には、菊の紋様が施されている。
髪が落ちてこないことを確認して、凛火は襖を開けた。鼻をくすぐった味噌汁の匂いが強くなる。幸せの香りに、凛火は頬が緩んだ。
香りを頼りに廊下を進むと、厨と思しきところに辿り着いた。そこでは初老の女性がキビキビと働いている。釜の火を確認し、野菜を刻み、卵を巻き、皿を並べて、出来上がった料理を盛り付ける。流れるような隙のない動きに、凛火は息を止めていた。
女性は厨の出入り口に佇む凛火に気づくと、しっかり口角を上げて凛火に頭を下げた。
「おはようございます、奥さま。わたしは綾城家に仕える侍女、和枝でございます。お困りのことがございましたら、何なりと、この和枝にお尋ねくださいませ」
年齢を感じさせない、可愛らしい声だった。
「えっと、おはようございます。凛火です。これからよろしくお願いします」
ありきたりな挨拶をしてしまった。綾城家は由緒正しい細工師の家系だ。そこに仕える侍女であれば、しきたりに厳しいだろうか。
内心慌てたが、和枝はニコニコしているだけだ。咎められる心配はなさそうである。
「あ、あの。朝ごはんですか?」
「ええそうです。もうすぐで出来上がりますから、お座敷でお待ちくださいませね」
「ありがとうございます。えっと、すみません。お座敷ってどこですか?」
早速、気の抜けた質問をしてしまった。
和枝に教えられた座敷に向かう。そこにはすでに、爽が静かに座っていた。部屋からは気配も何も感じなかった。まるで忍びのようである。
「おはようございます」
「ああ」
「いい天気ですね」
「そうだな」
「………」
「………」
気まずい。
夫婦とは、こんなに会話のないものなのか?細工工房の工房長夫婦は、いつも楽しい夫婦漫才を見せてくれていた。それが夫婦の形なのだと思っていたのだが、実はあれは珍しかったのだろうか。
和枝の運んできてくれた料理は、朝の眠い身体にじんわりと沁みる、温かいものだった。
盆の上にある、きゅうりの漬物と白米、野菜のたっぷり入った味噌汁。だし巻き玉子には紅生姜がのっている。
今までご飯と言えば、お粥に薬味が少々のみのことが多かった。それが、朝からこんな豪華な食事にありつけるなんて!それも白米を!
感激で泣きそうな凛火とは対照的に、爽は淡々と食事の前で手を合わせた。
「いただきます」
爽にとっては、この食事はいつものことなのだろう。そんな人の妻になったのだから、凛火も慣れなければ。いちいち感動してはいけない。いやでも、キラキラ輝いて見えるこの料理たちに感動するなという方が難しい。
「食べないのか?」
「え?そ、そんなまさか!いただきます!」
凛火は慌てて箸を手に取った。水気が程よく取れたみずみずしい白米を口に含む。ああ、なんておいしいのだろう!
和枝の素晴らしい手料理に舌鼓を打っていると、爽はさっさと食べ終わってしまった。爽は箸を置いて、じっと凛火を見ている。凛火はごくりと卵焼きを飲み込んだ。
「あの…何か変でしょうか」
「あなたが食べ終わるのを待っている」
「え、私食べるの遅いですから、大丈夫ですよ」
「いや。一緒に食事をしているのだから、当然だろう。むしろ、あなたの食べる速度を考慮するべきだったな。すまない。次からは、もう少しゆっくり食べよう」
「ご自分の食べやすい速度で食べてくださって大丈夫ですよ!?」
想像以上に律儀な人のようだ。
細工工房では、それぞれ個人で食事をすることが多かった。細工作りは個人のこだわりがあったので、基本的に共同作業することはない。そのため、食事の時間もまちまちで、誰かと共に食事するという習慣がなかった。だから凛火は、自分の食べている姿を爽が見ていることが、少しだけ気恥ずかしい。
食事を食べ進めながら、凛火はちらりと爽の顔を盗み見た。改めて見ると、爽は驚くほど綺麗な顔をしている。腕の良い細工師が丁寧に丁寧に顔の輪郭を作り、顔の造形を掘り進めていったようだ。これほどまでに整った顔を、凛火は知らない。
「食べ終わったな」
「お待たせいたしました」
「気にするな」
爽は手を合わせて「ごちそうさまでした」と頭を下げた。それに凛火も倣う。昨日は腹が立った相手だが、食事を共にしたことで、少し心が緩和した気がした。
何やら良い香りが漂っている。
(これは…。これは!お味噌汁!)
ガバッと身を起こす。香りは部屋の外から漂っていた。
乱れた着物を脱いで、着慣れた着物に着替える。
薄香色の生地に淡い花の意匠が染められた衣を着る。その上から焦茶の上着を羽織った。あちこちに跳ねる錆色の髪を解かして結い上げ、簪で固定する。
簪は凛火の力作だ。飴色の光沢を放つ簪には、菊の紋様が施されている。
髪が落ちてこないことを確認して、凛火は襖を開けた。鼻をくすぐった味噌汁の匂いが強くなる。幸せの香りに、凛火は頬が緩んだ。
香りを頼りに廊下を進むと、厨と思しきところに辿り着いた。そこでは初老の女性がキビキビと働いている。釜の火を確認し、野菜を刻み、卵を巻き、皿を並べて、出来上がった料理を盛り付ける。流れるような隙のない動きに、凛火は息を止めていた。
女性は厨の出入り口に佇む凛火に気づくと、しっかり口角を上げて凛火に頭を下げた。
「おはようございます、奥さま。わたしは綾城家に仕える侍女、和枝でございます。お困りのことがございましたら、何なりと、この和枝にお尋ねくださいませ」
年齢を感じさせない、可愛らしい声だった。
「えっと、おはようございます。凛火です。これからよろしくお願いします」
ありきたりな挨拶をしてしまった。綾城家は由緒正しい細工師の家系だ。そこに仕える侍女であれば、しきたりに厳しいだろうか。
内心慌てたが、和枝はニコニコしているだけだ。咎められる心配はなさそうである。
「あ、あの。朝ごはんですか?」
「ええそうです。もうすぐで出来上がりますから、お座敷でお待ちくださいませね」
「ありがとうございます。えっと、すみません。お座敷ってどこですか?」
早速、気の抜けた質問をしてしまった。
和枝に教えられた座敷に向かう。そこにはすでに、爽が静かに座っていた。部屋からは気配も何も感じなかった。まるで忍びのようである。
「おはようございます」
「ああ」
「いい天気ですね」
「そうだな」
「………」
「………」
気まずい。
夫婦とは、こんなに会話のないものなのか?細工工房の工房長夫婦は、いつも楽しい夫婦漫才を見せてくれていた。それが夫婦の形なのだと思っていたのだが、実はあれは珍しかったのだろうか。
和枝の運んできてくれた料理は、朝の眠い身体にじんわりと沁みる、温かいものだった。
盆の上にある、きゅうりの漬物と白米、野菜のたっぷり入った味噌汁。だし巻き玉子には紅生姜がのっている。
今までご飯と言えば、お粥に薬味が少々のみのことが多かった。それが、朝からこんな豪華な食事にありつけるなんて!それも白米を!
感激で泣きそうな凛火とは対照的に、爽は淡々と食事の前で手を合わせた。
「いただきます」
爽にとっては、この食事はいつものことなのだろう。そんな人の妻になったのだから、凛火も慣れなければ。いちいち感動してはいけない。いやでも、キラキラ輝いて見えるこの料理たちに感動するなという方が難しい。
「食べないのか?」
「え?そ、そんなまさか!いただきます!」
凛火は慌てて箸を手に取った。水気が程よく取れたみずみずしい白米を口に含む。ああ、なんておいしいのだろう!
和枝の素晴らしい手料理に舌鼓を打っていると、爽はさっさと食べ終わってしまった。爽は箸を置いて、じっと凛火を見ている。凛火はごくりと卵焼きを飲み込んだ。
「あの…何か変でしょうか」
「あなたが食べ終わるのを待っている」
「え、私食べるの遅いですから、大丈夫ですよ」
「いや。一緒に食事をしているのだから、当然だろう。むしろ、あなたの食べる速度を考慮するべきだったな。すまない。次からは、もう少しゆっくり食べよう」
「ご自分の食べやすい速度で食べてくださって大丈夫ですよ!?」
想像以上に律儀な人のようだ。
細工工房では、それぞれ個人で食事をすることが多かった。細工作りは個人のこだわりがあったので、基本的に共同作業することはない。そのため、食事の時間もまちまちで、誰かと共に食事するという習慣がなかった。だから凛火は、自分の食べている姿を爽が見ていることが、少しだけ気恥ずかしい。
食事を食べ進めながら、凛火はちらりと爽の顔を盗み見た。改めて見ると、爽は驚くほど綺麗な顔をしている。腕の良い細工師が丁寧に丁寧に顔の輪郭を作り、顔の造形を掘り進めていったようだ。これほどまでに整った顔を、凛火は知らない。
「食べ終わったな」
「お待たせいたしました」
「気にするな」
爽は手を合わせて「ごちそうさまでした」と頭を下げた。それに凛火も倣う。昨日は腹が立った相手だが、食事を共にしたことで、少し心が緩和した気がした。