鬼火姫〜細工師の契約婚姻譚〜
7話 人間と鬼の輪廻
『英雄』として天帝に指名されたのは、爽が三歳の時だった。
あまりに幼すぎる『英雄』に、当時の狩人たちは大きく動揺したらしい。刀を握ったことのない、誰かの庇護下でしかまだ生きられない人間を、『英雄』に指名する。その異常さに、狩人たちは天帝に物申した。
しかし天帝は取り合わず、爽を『英雄』として認めさせた。
だから爽は、物心ついた頃から『英雄』だった。刀を握ることが当然で、鬼を斬ることが当たり前だった。
ただ、刀を振るたびに自分の心も斬られていった。
細工作りをしていたい。
綾城家は細工作りで大きくなった家だ。それなのに、どうして自分は細工作りをせず刀を振っているんだろう。
本当は、刀を振りたくない。鬼でも、傷つけたいわけではない。鬼は全滅させると意気込む人もいるが、爽にはそこまでの熱さはなかった。
人を傷つける鬼は許さない。だが、鬼だからと言う理由で、問答無用に斬りつけていくのは違うと思う。
それでは、かつて鬼が人間にしたのと同じだ。人間だからという理由で襲われ、それに腹を立てたのではなかったか。
モヤモヤを抱えたまま、数年が経った。十歳になった爽は、天帝から本格的な鬼火姫の討伐を命じられた。普段の任務から離れ、鬼火姫の気配を感知すればそちらを優先するように、と。
その日から、爽は身体に違和感を覚えた。どこかに身体や意識が引っ張られる。気をつけていないと、身体が勝手に駆け出してしまいそうだ。
一度、狩人と細工師の両立生活にむしゃくしゃして、家を飛び出したことがある。気の赴くまま、身体が動くのに身を任せた。
とある集落にたどり着いた。そこは、村にもならない小規模な集団が生活している地域だった。
こんなところ、来たことがない。『英雄』として、鬼火姫を討つために身体が動いたのだ。
どこに行っても、『英雄』の自分から逃れることはできない。
仄暗い気持ちを抱えながら、それでも自分の手は刀を握る。物心ついた時から何度も訓練して、身に染みてしまった。
「あなた、だれ?」
幼い声に振り返ると、少女が籠いっぱいに洗濯物を抱えて立っていた。
背景が透けて見えそうなほど、存在感の希薄な少女だった。彼女を構成する色が全体的に薄い。錆色のぴょんぴょん跳ねている髪も、大量の水に溶かした絵の具のような瞳も、全てが儚い。そして小さい。
それなのに、爽の全身の鳥肌が立った。
鬼火姫だ。鬼火姫が、目の前にいる。『英雄』の本能が悲鳴を上げていた。
「おーい凛火ちゃん。すまねえなぁ、洗濯物頼んじまって」
「おじさーん!私は大丈夫だけど、なんか旅人さんが来てるよ」
「おや、誰だいあんた。どこから来たんだ?随分綺麗な格好をしているね」
爽は着物を見下ろした。都ではいたって普通の着物だ。しかしここでは綺麗に分類されるらしい。確かに、鬼火姫と駆け寄ってきた男は、布の継ぎ接ぎをして、無理矢理着物の形にしたようなものを着ている。
男は爽の刀に目をやって、凛火の肩に手を置いた。
「凛火ちゃん、洗濯物をうちに届けておいてくれないかい?」
「分かった!おばさん、体調はどう?」
「随分良くなってきたよ。でもまだ油断はできねえから。しばらく様子を見ておいてくれねえか」
「うん!」
凛火と呼ばれた鬼火姫は、洗濯物を抱えて走っていった。その姿はさながら、ただの人間の少女だ。歳は爽よりも下に見えた。
「さて、お前さん。帰ってくれねえか」
鬼火姫に向けた柔らかい笑みは消えて、男は爽に詰め寄った。
「…僕が何をしにきたのか、分かるんですか」
「あんた、鬼を狩る奴だろ。ここに鬼はいねえ。帰れ。ここに刀を持ち込むな」
「たった今、いましたよ。あなたは家に鬼を招き入れている」
「違う!あの子は鬼じゃねえ!」
何を言っているんだ。あんなに人ならざる気配をさせておきながら、鬼じゃないなんて。呆れてものも言えない。それとも、あの少女が巧妙に正体を隠しているのだろうか。
もうどうでも良くなった。鬼火姫を斬って『英雄』から解放されるなら、それでいいのではないか。ちょうど目と鼻の先に鬼火姫がいるのだ。都に戻る前に、仕事を片付けて、それでもう狩人は辞めよう。鬼火姫を討伐するという義務は果たすのだ。誰も文句は言えない。
「……英雄…?」
背後から、軽やかな鈴のような声が聞こえた。鬼火姫にそっくりの女が立っていた。スラリと長身で、だが華奢で儚い。
女性はハッと目を見開いた。その瞳に縦線が入った。額が蠢き、角が生えてくる。
爽は目を細めた。爽が何をするでもなく、女は血を吐いて倒れた。
こんな、陽の光が出ている時に鬼の姿になるなんて、何て無謀な。
鬼は、鬼の姿で陽光の下を歩けない。鬼の術も、陽の光で焼け消えてしまう。
「……わたしを、殺しに来たのでしょう。早く、殺しなさい」
「違う。僕が殺しに来たのは鬼火姫だ」
「わたしよ。わたしが鬼火姫よ!」
「あんたじゃない。気配が違う」
角を消した女は、ただの人間に見えた。一体何のためにさっきは姿を変えたのだ、この女。
「わたしが鬼火姫の元凶よ!殺すならわたしにしなさい!」
胸糞悪い。
鬼は切り捨てるものであって、極悪非道の生き物だ。人間に害を為すものだ。情けをかけるな。切り捨てろ。
今まで散々、そう言われてきた。刀を振るたび、稽古をするたび、そう言われ続けた。
いざ鬼を斬ると、鬼たちはいつも苦しそうだった。鬼の赤子を斬ったとき、その親が絶叫して襲いかかってきた。
鬼も人間と同じだ。斬られたら痛い。身内が殺されれば苦しい、辛い、憎い。
人間も鬼も、何千年も前のことを、ずっと繰り返しているだけではないか。
ただ鬼だからと言う理由で刀を振るのに、自分は嫌気がさしていたのではなかったか。
爽は刀から手を離した。女は訝しげな目で爽を見上げる。
「鬼火姫のところへ、案内してくれないか。彼女の様子を見たい」
あまりに幼すぎる『英雄』に、当時の狩人たちは大きく動揺したらしい。刀を握ったことのない、誰かの庇護下でしかまだ生きられない人間を、『英雄』に指名する。その異常さに、狩人たちは天帝に物申した。
しかし天帝は取り合わず、爽を『英雄』として認めさせた。
だから爽は、物心ついた頃から『英雄』だった。刀を握ることが当然で、鬼を斬ることが当たり前だった。
ただ、刀を振るたびに自分の心も斬られていった。
細工作りをしていたい。
綾城家は細工作りで大きくなった家だ。それなのに、どうして自分は細工作りをせず刀を振っているんだろう。
本当は、刀を振りたくない。鬼でも、傷つけたいわけではない。鬼は全滅させると意気込む人もいるが、爽にはそこまでの熱さはなかった。
人を傷つける鬼は許さない。だが、鬼だからと言う理由で、問答無用に斬りつけていくのは違うと思う。
それでは、かつて鬼が人間にしたのと同じだ。人間だからという理由で襲われ、それに腹を立てたのではなかったか。
モヤモヤを抱えたまま、数年が経った。十歳になった爽は、天帝から本格的な鬼火姫の討伐を命じられた。普段の任務から離れ、鬼火姫の気配を感知すればそちらを優先するように、と。
その日から、爽は身体に違和感を覚えた。どこかに身体や意識が引っ張られる。気をつけていないと、身体が勝手に駆け出してしまいそうだ。
一度、狩人と細工師の両立生活にむしゃくしゃして、家を飛び出したことがある。気の赴くまま、身体が動くのに身を任せた。
とある集落にたどり着いた。そこは、村にもならない小規模な集団が生活している地域だった。
こんなところ、来たことがない。『英雄』として、鬼火姫を討つために身体が動いたのだ。
どこに行っても、『英雄』の自分から逃れることはできない。
仄暗い気持ちを抱えながら、それでも自分の手は刀を握る。物心ついた時から何度も訓練して、身に染みてしまった。
「あなた、だれ?」
幼い声に振り返ると、少女が籠いっぱいに洗濯物を抱えて立っていた。
背景が透けて見えそうなほど、存在感の希薄な少女だった。彼女を構成する色が全体的に薄い。錆色のぴょんぴょん跳ねている髪も、大量の水に溶かした絵の具のような瞳も、全てが儚い。そして小さい。
それなのに、爽の全身の鳥肌が立った。
鬼火姫だ。鬼火姫が、目の前にいる。『英雄』の本能が悲鳴を上げていた。
「おーい凛火ちゃん。すまねえなぁ、洗濯物頼んじまって」
「おじさーん!私は大丈夫だけど、なんか旅人さんが来てるよ」
「おや、誰だいあんた。どこから来たんだ?随分綺麗な格好をしているね」
爽は着物を見下ろした。都ではいたって普通の着物だ。しかしここでは綺麗に分類されるらしい。確かに、鬼火姫と駆け寄ってきた男は、布の継ぎ接ぎをして、無理矢理着物の形にしたようなものを着ている。
男は爽の刀に目をやって、凛火の肩に手を置いた。
「凛火ちゃん、洗濯物をうちに届けておいてくれないかい?」
「分かった!おばさん、体調はどう?」
「随分良くなってきたよ。でもまだ油断はできねえから。しばらく様子を見ておいてくれねえか」
「うん!」
凛火と呼ばれた鬼火姫は、洗濯物を抱えて走っていった。その姿はさながら、ただの人間の少女だ。歳は爽よりも下に見えた。
「さて、お前さん。帰ってくれねえか」
鬼火姫に向けた柔らかい笑みは消えて、男は爽に詰め寄った。
「…僕が何をしにきたのか、分かるんですか」
「あんた、鬼を狩る奴だろ。ここに鬼はいねえ。帰れ。ここに刀を持ち込むな」
「たった今、いましたよ。あなたは家に鬼を招き入れている」
「違う!あの子は鬼じゃねえ!」
何を言っているんだ。あんなに人ならざる気配をさせておきながら、鬼じゃないなんて。呆れてものも言えない。それとも、あの少女が巧妙に正体を隠しているのだろうか。
もうどうでも良くなった。鬼火姫を斬って『英雄』から解放されるなら、それでいいのではないか。ちょうど目と鼻の先に鬼火姫がいるのだ。都に戻る前に、仕事を片付けて、それでもう狩人は辞めよう。鬼火姫を討伐するという義務は果たすのだ。誰も文句は言えない。
「……英雄…?」
背後から、軽やかな鈴のような声が聞こえた。鬼火姫にそっくりの女が立っていた。スラリと長身で、だが華奢で儚い。
女性はハッと目を見開いた。その瞳に縦線が入った。額が蠢き、角が生えてくる。
爽は目を細めた。爽が何をするでもなく、女は血を吐いて倒れた。
こんな、陽の光が出ている時に鬼の姿になるなんて、何て無謀な。
鬼は、鬼の姿で陽光の下を歩けない。鬼の術も、陽の光で焼け消えてしまう。
「……わたしを、殺しに来たのでしょう。早く、殺しなさい」
「違う。僕が殺しに来たのは鬼火姫だ」
「わたしよ。わたしが鬼火姫よ!」
「あんたじゃない。気配が違う」
角を消した女は、ただの人間に見えた。一体何のためにさっきは姿を変えたのだ、この女。
「わたしが鬼火姫の元凶よ!殺すならわたしにしなさい!」
胸糞悪い。
鬼は切り捨てるものであって、極悪非道の生き物だ。人間に害を為すものだ。情けをかけるな。切り捨てろ。
今まで散々、そう言われてきた。刀を振るたび、稽古をするたび、そう言われ続けた。
いざ鬼を斬ると、鬼たちはいつも苦しそうだった。鬼の赤子を斬ったとき、その親が絶叫して襲いかかってきた。
鬼も人間と同じだ。斬られたら痛い。身内が殺されれば苦しい、辛い、憎い。
人間も鬼も、何千年も前のことを、ずっと繰り返しているだけではないか。
ただ鬼だからと言う理由で刀を振るのに、自分は嫌気がさしていたのではなかったか。
爽は刀から手を離した。女は訝しげな目で爽を見上げる。
「鬼火姫のところへ、案内してくれないか。彼女の様子を見たい」