鬼火姫〜細工師の契約婚姻譚〜
8話 僕の希望
女に連れられて、爽は一軒家を覗き込んだ。さっき鬼火姫を逃した男の家だ。
鬼火姫は、くるくると良く働いていた。男の妻が妊娠中であり、そろそろ産まれそうなのだ。鬼火姫は、妻のお腹に時折手を当てていた。鼻歌を歌って、柔らかい声音で声をかけている。男が帰宅すると、身体を起こす妻の背中を支えていた。
気配さえ感じなければ、本当にただの人間の少女だ。献身的で、気遣いのできる優しい少女だ。
そんな彼女を、自分は「鬼火姫だから」という理由で斬ろうとしている。それが『英雄』の仕事だからと、言い訳をして。
「凛火は、自分が鬼火姫であると知りません。鬼の能力も、ほとんど使えない。厄災になり得るはずがないんです」
「どうして、能力が使えないんですか」
「わたしが角を折ったからです」
思いがけない返事だった。鬼にとって、角は第二の心臓だ。爽も鬼討伐の時は角を狙うことがある。弱点だと分かっているからだ。それを、鬼自らが手にかけるとは。
「能力は、角を媒体にして発動させます。それをわたしは折ったんです。娘に、普通の人生を送ってもらいたくて。人間として、生きてほしくて」
しばらく観察をしていると、妻が破水した。慌てる男の代わりに、鬼火姫が産婆を呼びに行った。
数時間後、赤子が生まれた。その間、鬼火姫はずっと、祈る男の背中を摩り続けていた。
夜中だった。鬼の女は、いつでも能力を使える時間帯だ。しかし、使おうとしなかった。陽光の制約が消えたのに、爽を襲おうとしなかった。爽にその気がなくなったと、分かっていたのだろう。
「定期的に様子を見に来ます。鬼火姫が人を襲わないなら、僕は何もしない」
「ありがとうございます」
不思議と、気持ちが軽くなっていた。
『英雄』として、この判断は間違っているかもしれない。だが、人に寄り添い、赤子を愛でる鬼火姫の姿に心打たれた。鬼だからと、厄災だからと切り捨てるのではない。彼女の行動を見て、斬らない判断をした。彼女なら厄災にならないかもしれない。その予感がした。
**********
爽の語りを聞いて、凛火は呆然とした。
まさか、幼い頃に爽と顔を合わせていたとは。それに、爽は母とも話をしていた。
爽は、狩人でありながら凛火を見逃し、あまつさえ妻としているのだ。
凛火は爽の腕から抜け出した。
「…私と結婚したのは、どうしてですか」
「あなたは、ここ最近鬼に狙われているだろう。鬼が頻繁に『鬼火姫』と口にするようになった。さっきの鬼だって、あなたを探しに来ていた。そうなれば、他の狩人に見つかるのも時間の問題だ。だが、僕の身内になっていれば、ある程度の隠れ蓑にはなる。誰も、狩人の、しかも『英雄』の妻が鬼だとは思わない」
「どうして、そこまでしてくれるんですか」
「僕の意地だよ」
爽は凛火との距離を詰めた。爽は凛火の頬を優しく撫でた。今まで見たことのないほど穏やかな眼差しで、凛火を見つめる。
「あなたは僕の希望なんだ。鬼と人の不毛な争いを止められるかもしれない」
**********
「おい、鬼だぞ!」
「そっちに行った!」
「挟み撃ちにしろ!」
バタバタと狩人の足音が聞こえる。真っ暗闇の中、荒い息遣いが背後から迫ってきた。
振り返れば、額から角を生やした鬼が、瞳をぎらつかせてそこにいた。全く、呆れてものも言えない。
「なんでわざわざ、鬼の姿になるかねぇ」
「寄越せ…!肉…!」
「俺の肉はまずいぞー」
「肉…肉……!鬼火姫のもとへ、早く行かねば…!」
鬼は重度の飢餓状態らしい。碌な食事ができていなかったのだろう。そういう鬼は、昔の名残で人肉を欲する。
飛びかかってきた鬼をどうしようかと思案していると、一閃が目の前に走った。ごとりと鬼の首が落ちて、黒い霧となる。
「大丈夫ですか?お怪我は?」
狩人だ。狩人が、刀をぎらつかせて見てきた。正直、刀が抜き身のまま目の前にある方が、肝が冷える。
「い…いやぁ、びっくりしましたよ!何ですかあれ!」
「鬼です。人を襲い、人を喰らう。人の天敵です」
鬼の天敵もまた、人なのだ。それを人は理解しているのだろうか。
しかしそんなことはお首にも出さず、真面目くさった顔で頷いてやった。
「そんなものがあるんですね…。とにかく、怪我はないので大丈夫です」
「いやぁ良かった!では、わたしらはこれで。お気をつけて〜!」
去っていった狩人たちに、大きくため息をついた。安堵で腰が抜けてしまった。
「あの鬼も鬼火姫のことを口にしていたな」
「全く、どこにいるんだか」
「『英雄』は何をしているんだ」
「あいつ新婚だから浮かれてるんじゃねーの」
「新婚?何言ってんだ、一年過ぎたら新婚じゃねえよ」
「それもそうか」
狩人たちの会話が気になった。
やはり、『英雄』がいるのだ。話の内容的に『英雄』は一年前に婚姻して浮かれているようなので、鬼火姫に今すぐ毒牙がかかることはない。だが、すぐにでも対処しなければ。よりによって、この街に鬼火姫がいるのだ。
「待ってろ、凛火…!俺が絶対に守ってやるからな!」
拳を夜空に突き上げ、青年は誓った。
鬼火姫は、くるくると良く働いていた。男の妻が妊娠中であり、そろそろ産まれそうなのだ。鬼火姫は、妻のお腹に時折手を当てていた。鼻歌を歌って、柔らかい声音で声をかけている。男が帰宅すると、身体を起こす妻の背中を支えていた。
気配さえ感じなければ、本当にただの人間の少女だ。献身的で、気遣いのできる優しい少女だ。
そんな彼女を、自分は「鬼火姫だから」という理由で斬ろうとしている。それが『英雄』の仕事だからと、言い訳をして。
「凛火は、自分が鬼火姫であると知りません。鬼の能力も、ほとんど使えない。厄災になり得るはずがないんです」
「どうして、能力が使えないんですか」
「わたしが角を折ったからです」
思いがけない返事だった。鬼にとって、角は第二の心臓だ。爽も鬼討伐の時は角を狙うことがある。弱点だと分かっているからだ。それを、鬼自らが手にかけるとは。
「能力は、角を媒体にして発動させます。それをわたしは折ったんです。娘に、普通の人生を送ってもらいたくて。人間として、生きてほしくて」
しばらく観察をしていると、妻が破水した。慌てる男の代わりに、鬼火姫が産婆を呼びに行った。
数時間後、赤子が生まれた。その間、鬼火姫はずっと、祈る男の背中を摩り続けていた。
夜中だった。鬼の女は、いつでも能力を使える時間帯だ。しかし、使おうとしなかった。陽光の制約が消えたのに、爽を襲おうとしなかった。爽にその気がなくなったと、分かっていたのだろう。
「定期的に様子を見に来ます。鬼火姫が人を襲わないなら、僕は何もしない」
「ありがとうございます」
不思議と、気持ちが軽くなっていた。
『英雄』として、この判断は間違っているかもしれない。だが、人に寄り添い、赤子を愛でる鬼火姫の姿に心打たれた。鬼だからと、厄災だからと切り捨てるのではない。彼女の行動を見て、斬らない判断をした。彼女なら厄災にならないかもしれない。その予感がした。
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爽の語りを聞いて、凛火は呆然とした。
まさか、幼い頃に爽と顔を合わせていたとは。それに、爽は母とも話をしていた。
爽は、狩人でありながら凛火を見逃し、あまつさえ妻としているのだ。
凛火は爽の腕から抜け出した。
「…私と結婚したのは、どうしてですか」
「あなたは、ここ最近鬼に狙われているだろう。鬼が頻繁に『鬼火姫』と口にするようになった。さっきの鬼だって、あなたを探しに来ていた。そうなれば、他の狩人に見つかるのも時間の問題だ。だが、僕の身内になっていれば、ある程度の隠れ蓑にはなる。誰も、狩人の、しかも『英雄』の妻が鬼だとは思わない」
「どうして、そこまでしてくれるんですか」
「僕の意地だよ」
爽は凛火との距離を詰めた。爽は凛火の頬を優しく撫でた。今まで見たことのないほど穏やかな眼差しで、凛火を見つめる。
「あなたは僕の希望なんだ。鬼と人の不毛な争いを止められるかもしれない」
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「おい、鬼だぞ!」
「そっちに行った!」
「挟み撃ちにしろ!」
バタバタと狩人の足音が聞こえる。真っ暗闇の中、荒い息遣いが背後から迫ってきた。
振り返れば、額から角を生やした鬼が、瞳をぎらつかせてそこにいた。全く、呆れてものも言えない。
「なんでわざわざ、鬼の姿になるかねぇ」
「寄越せ…!肉…!」
「俺の肉はまずいぞー」
「肉…肉……!鬼火姫のもとへ、早く行かねば…!」
鬼は重度の飢餓状態らしい。碌な食事ができていなかったのだろう。そういう鬼は、昔の名残で人肉を欲する。
飛びかかってきた鬼をどうしようかと思案していると、一閃が目の前に走った。ごとりと鬼の首が落ちて、黒い霧となる。
「大丈夫ですか?お怪我は?」
狩人だ。狩人が、刀をぎらつかせて見てきた。正直、刀が抜き身のまま目の前にある方が、肝が冷える。
「い…いやぁ、びっくりしましたよ!何ですかあれ!」
「鬼です。人を襲い、人を喰らう。人の天敵です」
鬼の天敵もまた、人なのだ。それを人は理解しているのだろうか。
しかしそんなことはお首にも出さず、真面目くさった顔で頷いてやった。
「そんなものがあるんですね…。とにかく、怪我はないので大丈夫です」
「いやぁ良かった!では、わたしらはこれで。お気をつけて〜!」
去っていった狩人たちに、大きくため息をついた。安堵で腰が抜けてしまった。
「あの鬼も鬼火姫のことを口にしていたな」
「全く、どこにいるんだか」
「『英雄』は何をしているんだ」
「あいつ新婚だから浮かれてるんじゃねーの」
「新婚?何言ってんだ、一年過ぎたら新婚じゃねえよ」
「それもそうか」
狩人たちの会話が気になった。
やはり、『英雄』がいるのだ。話の内容的に『英雄』は一年前に婚姻して浮かれているようなので、鬼火姫に今すぐ毒牙がかかることはない。だが、すぐにでも対処しなければ。よりによって、この街に鬼火姫がいるのだ。
「待ってろ、凛火…!俺が絶対に守ってやるからな!」
拳を夜空に突き上げ、青年は誓った。