温泉街を繋ぐ橋の上で涙を流していたら老舗旅館の若旦那に溺愛されました~世を儚むわけあり女と勘違いされた3分間が私の運命を変えた~
 広い和室にぽつんと残され、握りしめたルームキーに視線を落とす。レトロなアクリルのタグには、賢木屋~桂の間~と刻印がされている。それをテーブルに置き、もう一度庭を望める縁側に立ってみた。

「……遠い過去に来たみたい」

 不思議な時間の流れを感じながら、日が暮れ始めた空を眺めた。

 狐につままれるって、こういうことをいうのかもしれない。
 化かされている気分だけど、せっかくだし、まずは内風呂に入ってみよう。

 ここに来たとき、温泉を楽しむつもりはなかった。
 ただ都会から遠く離せたところへ行きたかった。

 だけど、ひとたび湯につかったら、その心地よさで無意識に「はぁあ」って深いため息をこぼしていた。

 ガチガチに固まっていた全身が弛緩する。ちょっと熱いくらいのお湯だけど、その熱さが冷えきった身体に染み渡り、コリコリに固くなった胸の内を解してくれるようだった。

 檜の浴槽だろう。
 滑りのよい縁にうなだれて、窓の外を眺めてみた。

 木製の格子の向こうでは、夕暮れに染まる庭木が揺れている。ざわざわと木々の揺れる音の合間から、虫の音が聞こえてきた。

 りーりーりーと鳴くのは鈴虫か。
 寂しさに、ほろりと涙がこぼれ落ちた。
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