君を守る契約
明日はいよいよ引っ越しだという前日、久しぶりに食堂で彼に会った。今日は混み合っており、窓際に陣取った私の隣がちょうど空いたところを目指したかのように彼はさっと座ってきた。

「お隣いいですか?」

もう座っているのに形式ばった聞き方をする彼に思わずクスッと笑ってしまった。

「どうぞ」

相変わらず私は手作りの弁当を広げていたが、彼はまた定食がトレイにのっていた。

「いつも美味しそうなの食べてるね」

周囲の喧騒が私たちの会話をかき消すであろうが、それでも私にしか聞こえないトーンで話しかけてきた。

「ありがとうございます。見ての通り、残りものばかりです」

「君の料理は本当に美味しかったから、この定食と交換して欲しいくらいだ」

「まさか……。こんなものを松永さんに食べさせるわけにはいきませんよ」

今日は昨日の残りのナスの炒め物とポテトサラダ、人参シリシリ、冷凍シュウマイだ。

「残念。それはそうと指輪は? 気に入らなかった?」

彼は私の左薬指に視線を落としたまま静かにそう言った。その言葉はなぜかほんの少しだけ寂しげな声色だったように感じた。

「まさか! でもあんな高そうなもの普段つけるなんてできません。それに目立たない方がいいのかと思って」

「そんなことない。できればずっと付けていて欲しい」

彼はふと視線を上げると私の顔を見つめてきた。その真剣な眼差しに私は言葉が出てこない。

「俺が安心するから付けていて」

彼の言葉の意味がよくわからない。契約の証だから? 私は彼の意図することがわからなかったが、それでも彼のいう通り指輪をつけることにすると小声で約束すると彼は頷いていた。

「今日は18時には帰れるから明日は朝から動けるんだけど、何時にする?」

「私も17時半までの勤務なので明日は朝から動けます」

「わかった。じゃ、明日7時に迎えにいくよ」

「ふえ? 7時?!」

思わず変な声が出てしまった。彼に取っての早めは7時なの? 
私との時間の感覚の違いに驚くと、ククッと笑う彼の姿があった。

「そんなわけないじゃないか。10時でいいか?」

初めて彼の冗談を聞いたかもしれない。それに笑い声も。
いつも優しく微笑む姿は見るが、こんなに楽しそうに笑う姿を見るのは初めてかもしれない。その貴重な笑顔に私の胸はまたドキドキしてしまう。

「じゃ、また明日」

いつの間に食べ終わったのか、彼はトレーを持つと席を立って行ってしまった。彼の背中を見送りながら、何もはまっていない私の左手の薬指がほんの少しだけ熱を帯びている気がした。
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