この恋、史上最凶につき。
第八話 扉一枚の向こう側、息が触れそうな距離で
時雨くんに手を引かれ、
私は保健室の前まで連れてこられた。
授業中の静かな廊下に、
彼の足音だけが響く。
トン、と保健室の扉をノックすると、中にいた先生がすぐに顔を出した。
「どうしたの? ……あら、背中濡れてるじゃない」
先生は私の背中を見て眉をひそめた。
「ちょっと、水かけられて……」
「着替えあるから、ここで借りなさい。あなた、廊下で待っててね」
そう言われたのは、もちろん時雨くんだ。
先生は当然のようにそう言ったけど——
「……離れたくねぇ」
時雨くんは小さく、しかしはっきりと呟いた。
先生は一瞬きょとんとした後、苦笑する。
「心配なのはわかるけどね、女の子が着替えるのよ?
——廊下で待つこと。いいわね?」
「……」
時雨くんは不満そうに眉を寄せたが、
私がそっと袖をつまんで言った。
「すぐ終わるから……ね?」
その一言で、彼はようやく折れた。
「……わかった。でも、扉の前から離れねぇからな」
先生が「えっ」と驚いたけど、
止める暇もなく、時雨くんは扉のすぐ前に仁王立ちした。
扉が閉まる。
仕切りカーテンの向こう、
保健室は妙に静かで、落ち着かない。
(着替えるだけなのに……なんでこんなにドキドキするんだろ)
制服の上着を脱ぎ、濡れたブラウスに触ると、ひやっとして背筋が震えた。
その時。
コン……
扉の向こうから、低い声。
「雪菜……なぁ、ちゃんといるよな」
(……いるよ)
心の中で返しながら、
声を出すのは恥ずかしくて黙っていると——
「返事、しろ」
少し苛立った声で言ってくる。
仕方なく、私は小さく答えた。
「……いるよ」
すると、扉越しにため息が聞こえた。
「……よかった。返事ないと、不安になる」
(え……不安って……)
時雨くんがそんな言葉を言うとは思わなくて、
胸がきゅっとなった。
濡れたブラウスを脱ぐ時、
布が肌に引っついていて、ちょっと時間がかかる。
——そこで、また声。
「なぁ、今……脱いでんの?」
「っ!? し、時雨くん!?」
思わず声が裏返る。
扉越しに、彼が低く笑う気配がする。
「……返事が可愛い」
(む、無理……恥ずかしい……)
私は慌てて言った。
「ちょっと黙ってて……!いま着替えてるの!」
すると、扉越しに息を呑む音がした。
「……雪菜、今、脱いでるって……俺に言うなよ……」
「何でよ!?」
「意識するだろ。お前が、俺の知らねぇ場所で、俺の知らねぇ姿になってるとか……気がおかしくなる」
低くて、熱を含んだ声。
怒ってるというより、
“抑えている”感じがする。
私は急いで保健室のジャージを身につけ、
カーテンを開けて声をかけた。
「もう終わったよ……」
すると、次の瞬間——
ガチャッ!
扉が勢いよく開いて、
時雨くんが入ってきた。
先生がいない隙を見計らっていたらしい。
「雪菜!」
駆け寄ってきた彼は、
私を確かめるように腕を掴み、すぐ離した。
「……良かった。本当に、ちゃんといる」
その表情は、怒りも嫉妬も混ざっていて、
でもどこか必死で——
心が揺さぶられた。
「そんな心配するほど、いなくなったりしないよ……?」
そう言うと、彼は顔をゆっくり近づけてきた。
距離が、息が触れ合いそうなほど近い。
「雪菜……お前が他の場所で着替えてんの、嫌なんだよ」
「……え?」
「だってさ。俺以外誰も知らねぇ姿になってんじゃん」
耳まで熱くなるような台詞。
視線をそらそうとした瞬間——
時雨くんの手が、私の頬に触れた。
「……雪菜。今度から、濡れたりしたら俺が替えに連れてく」
「え、えぇっ!?」
「他の男に見られるくらいなら、俺が全部隠す」
その独占欲に、胸が苦しいほど熱くなる。
時雨くんの指先が頬をなぞり、
そのまま耳元に唇が寄った。
「……雪菜。お前、俺にどれだけ不安にさせてるかわかってる?」
心臓が跳ね上がる。
私を抱き寄せながら、
彼は囁くように言った。
「もうちょっとで、ここで取り返してた」
「と、取り返すって……なにを……」
彼の腕の力が少し強くなる。
「雪菜は俺のものだって、
ちゃんと刻みつけるやつ」
喉がひゅっと詰まる。
怖いのに、こんなにも胸が甘く震えるなんて——自分でも信じられなかった。