【香る物語】香りの檻
私は無言でグラスを洗いはじめた。呼吸をコントロールしながらーーほんの少しだけ吸って、息を長く止める。それを繰り返した。

ラベンダーの香りがする透明な泡に包まれたグラスを水で洗い流す。でもあの悪夢の臭いは泡と一緒に流れてくれない。だからもう一度同じ作業をする。臭いを流せば、あのことも洗い流せる気がして。何度も何度も……

けれど、どれだけ無心になって洗っても、心の奥の苦香(くか)は消えなかった。

「……穂乃香、もういいよ。俺がやるから」

突然後ろから聞こえた声に、思わず肩がピクリと上がり、手が止まった。振り返らなくてもわかる。聞き慣れた、落ち着いた低い声。

「うん……ごめん」

泡のついた手をそっと洗い流し、タオルで拭いた。私は謝るだけで、お兄ちゃんの顔も見ることができず、台所を出た。

背中越しに聞こえる水音、みんなの笑い声と悪夢のような臭いが、少しずつ遠ざかっていく。

階段を上りながら現実を思い知らされる。

お母さん、みんなと一緒に嬉しそうで、楽しそうで。でも私のトラウマのこと、完全に忘れちゃってるんだ。アルコールと、いろんな匂いが混ざった臭いがダメだって。

お母さんにとって私は必要?
別にいなくてもいいんじゃない?
ここはもう私の居場所がないよ……
苦しいな……

自分の部屋に戻ってドアを閉めた。深呼吸をしても、胸のざわめきは消えない。指先がまだ小刻みに震えていた。

血のつながった母親にさえ、忘れられた私の悪夢と存在。

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