【香る物語】香りの檻
『香りで人の心と体を整える。
 薬に頼らない癒やしを探る。』

祖父の信念を確実に受け継ぎながら、時代に合わせてアップデートした兄の言葉。その文字を追ううちに、ページからふわっと淡い金木犀とローマンカモミールの香が立ちのぼった気がしたのは、錯覚だろうか。

このブレンド香、好き。
お兄ちゃんが、ブレンドしてくれたんだよね。

芳香堂は家族で支える小さな会社。派閥も、競争もない。お兄ちゃんが次の社長になることは、最初から決まっている。

けれど、彼の名前を見つめていると、今よりさらに遠く、手の届かない存在であることに改めて気づかされた。

「はぁ……あれほどお父さんに頼んだのに。総務の一般事務がいいって……」

ため息と一緒に落胆の言葉が小さくこぼれた。

同期のみんなが浮き足立って、新しい配属部署へ向かうため、エレベーターに乗り込んでいく。

そんな中、人のまばらなホールをひとり横切り、無意識に階段を目指した。
< 5 / 82 >

この作品をシェア

pagetop