【香る物語】香りの檻
本当はずっといたいけど、いつまでもトイレにこもっているわけにはいかない。洗面台で口をすすいだが、喉にはまだ焼ける感じが残る。

ゆっくりと廊下を進み、ふと窓の外に目を向けた。春の暖かな陽射しが、木々の花をやわらかく照らしている。風に揺れる花びらが、ひらひらと宙を舞っていた。

あっ、まただ。あのときと同じ感じ。
確かあれは1年前だったよね。

研修後に辞令が出て、配属先の第一研究開発部へ初めて行った日。行きたくなくてわざとゆっくり歩いた。

あのときも、こんなふうに淡い春色の花びらが、ゆらりと舞っていたよね。

もう1年経ったんだ……。

ほんの少しだけ懐かしい気持ちになりながら、足を進める。窓の反対側には、『第一研究開発部 主任室・秘書室』と黒文字で記されたシルバープレートが、冷たく光っていた。

『入らないと』と思うだけで気が重くなり、小さくため息をつく。

IDをドアにかざすと、ピッ、カチャと無機質な音が聞こえる。ためらいながらドアを開けて中に入った。

再びカチャッという音と同時にドアが閉まる。その瞬間、部屋の隅にあるアームチェアに座っている人に気がつき、息をのんだ。静かに立ち上がり、スローモーションのようにこちらに歩いてくる律己さん。

無表情な彼からは何も読み取れない。

喉はカラカラに乾いているのに、無理に生唾を飲み込もうとする。体が硬直して動きが取れない。心臓だけが激しく胸を打ち続ける。私はただ、うつむくしかできずにいる。
< 73 / 82 >

この作品をシェア

pagetop