【香る物語】香りの檻
「久しぶりじゃねぇか、穂乃香」

背筋がゾクリとする。ヤツは唇の片側を下品に上げる。血走り濁った目が、私の全身を舐めるように上から下へと這った。

「へぇ〜、いい女になったじゃねぇか……
おまえなら返せる。たんと親孝行してもらうぞ」

その言葉を聞いて本能的に『逃げなきゃ!』と思った。

「これからおまえの新しい仕事場へ連れて行ってやるから。しっかり稼いでこいよ!」

とっさに腕を引こうとするが、ヤツはさらに力を込めてくる。

ダメだ。逃げられない。

幸い、ここは会社の前で、人通りもある。

そうだ! 叫んで助けを求めよう。

お腹に力を入れて大声で叫ぶ。叫んだ……はずなのに、声がまったく出ない。喉の奥から、細い空気だけがヒューッと漏れる。

そのとき、曖昧だった暗い過去の記憶が、ぽつりぽつりと頭の中に浮かび上がる。

そ、そうだ。ヤツが怒り、暴力を振るうと、お母さんがいつもそっと耳もとでささやいてた。それはいつものやさしいお母さんの声じゃなく、子供心にもわかるほど切迫した声。

「いい子だから……穂乃香、絶対声を出しちゃダメ。お父さんにもっとぶたれるから!」

お母さんを殴るヤツは、いつも冷笑していた。私を庇うように前へたち、震えながら盾になってくれていたお母さん。痛くて怖かっただろうに。

それでも一生懸命守ってくれた背中が、鮮明に蘇る。

あぁ、だから私は怖いときに声が出ないんだ。




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