【香る物語】香りの檻
それなら、どうしたらいい?

ヤツの言いなりになるくらいなら……死んだほうがマシ。

頭の中で答えを出すよりも先に、反射的に手を振り上げ、爪を立てたまま力任せに振り下ろす。

「うっ……!」

くぐもった唸り声を上げたヤツの頬に、真っ赤な線が浮かび上がった。そこからじわじわと滲み出す血。鮮やかだった赤が、夕暮れの中で少しずつ色を失い、どす黒く沈んでいくように見えた。

ヤツがゆっくりと左手を上げ、指先で傷に触れる。血のついた指先を見つめ、細められていた目が、次第に大きく釣り上がる。

……っ。
わ、私、この顔知ってる。
お母さんを殴る前のヤツの顔だ。

「……てめえ、なにしやがるんだ‼︎」

あっ、来る。
逃げなきゃ!

怒鳴り声と共に首筋の血管がピクつき、にやけた顔が般若の形相に変わる。そのとき、つかんでいた手の力が少しだけ緩んだ。

今だ!
このチャンスを逃しちゃいけない。

そう思ったのかどうかもわからない。気づけば、その腕を振りほどき、背中を向けて走り出していた。

早く、早く。

頭の中はそれだけで、視界はひどく狭い。心臓の音がうるさくて、周りの音がほとんど聞こえない。

足元も見ないまま、ただ前へ。

横断歩道の白いラインが、滲んだ視界の端に滑り込む。

次の瞬間、

クラクションのような音。続いて、何かが急ブレーキをかける気配。

「ーーっ!」

強い衝撃。

世界が横にひっくり返ったような感覚。

自分の体が弾かれたのか、足を取られただけなのかもわからない。ただ、背中と腰に、焼けるような痛みが走った。

気がつけば、私は地面に倒れていた。
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