【香る物語】香りの檻
ここは、研究者のお兄ちゃんにとっては日常なのだ。けれど私には、息の詰まる異世界のように感じる。同じ空気を吸っているのに、私だけが別の惑星に取り残されたみたいに。

どれほど近くにいても、お兄ちゃんの背中が遠い。手を伸ばせば届くはずなのに、見えない壁の向こうにあるようだった。その距離は、私が望んだもののはずなのに、気づけば、それがいちばん痛い。

もう逃げ場がないという現実が、私の心を少しずつ、しかし確実に蝕んでいった。

まるで、心の拠りどころまでも奪われていくように。ほんの数歩戻れば外へ出られるはずなのに、その世界がひどく遠くなったような錯覚に陥る。

デスクの上に、小さな黄色い付箋が一枚。
彼の端正な筆跡で、短い指示が書かれていた。

『荷物を整理したら奥の部屋へ。今後の業務について話す』

几帳面で、無駄のない文面。そこに『兄』の気配はなく、あるのはただ、上司としての言葉だけ。

唇の端をわずかに引きつらせ、息を吐くように小さくつぶやいた。

「はいはい。了解しました、ご主人様……」

乾いた笑いが喉の奥で途切れた。境界線を引くように、心のスイッチを切り替える。

指先に残る紙のざらつきを感じながら、デスクの上を静かに整えた。深呼吸をひとつ。笑みを消し、仕事用の表情へ。

時計のない部屋で、時間の流れだけが遠のいていく。やがて立ち上がり、奥のドアの前に立った。

金属の取っ手が、指先をさらに冷たくする。
一瞬、目を閉じた。覚悟を決めるために。

……トン、トン、トン

控えめなノック音が、この無機質な部屋の空気をかすかに震わせた。





< 9 / 82 >

この作品をシェア

pagetop