ガキ大将と猫 2 (溶け合う煙 side story)
3. ガラス越しの真実
揺れる満員電車の中、運よく空いた席に腰を下ろすことができた。
バッグからスマホを取り出し、ケースに挟んでいた四つ折りの小さな紙切れを、そっと引き抜いた。
給湯室で響に手渡されたそのメモをゆっくりと開く。
そこに並ぶ数字を、私は何度も、何度も見つめ返した。
――私の誕生日。
その番号が意味するのは彼のマンションのオートロックの解除ナンバーだった。
普段、響はカードキーを使用しているが暗証番号でも解錠できる仕組みなのだ。
それは付き合い始めた頃、何気ない会話の中で「暗証番号って覚えやすい数字にしちゃうんだよな」と笑っていた彼を思い出させた。
ーー私の誕生日を、ずっと……。
そんな些細な事実だけで、さっきまで張り詰めていた心が少しだけ緩んでしまう自分が悔しい。
――こんなので許されると思ってるの?
メモを折り畳みながら小さく唇を噛む。
昨日見た光景は、何一つ説明されていない。
それなのに。
「夜、来い。」
紙の余白に書かれていた殴り書きのような雑な文字。相変わらずの説明不足。
いつもそうだ。
必要以上に喋らない。
だからこそ、私はいつも彼の表情を読んできた。
でも昨日だけは、その表情が読めなかった。というか、いつもと変わらない響がいたような気がした。
もやもやとしたまま気づけば私は響のマンションの前に立っており、空はすっかり群青色へ変わり、エントランスの照明だけが静かに地面を照らしている。
私は深呼吸をひとつすると、オートロックのテンキーへ指を伸ばした。
誕生日を入力する。
『****』
──ピピッ
静かなエントランスで解錠を知らせる電子音と共にロックが外れ、入り口の自動ドアが開いた。
本当に、私の誕生日なんだ……。
胸の奥がまた痛くなる。
ーー嬉しいのか。
ーー悲しいのか。
もう自分でも分からない。
エントランスを抜けてエレベーターホールへと進んだ。
誰もいないエレベーターの中、階数を示す数字がカウントアップされるに連れて不安な気持ちが広がっていく。このまま私たち終わってしまうのだろうか?何度も来た部屋なのに、今日は初めて訪れる場所のように感じた。
ドアの前で立ち止まり、ゆっくり息を吐く。
ドアの解錠のため、再び銀色に光る数字に手を伸ばそうとした、その瞬間。
カチャ。
ドアが少しだけ開いた。
「おかえりぃー!重かったでしょー!……あれ?」
部屋から出てきたのは昨日見た女性だった。
どうやら、エントランスのロックが解錠されるとそのキーを所有する部屋に誰かが入って来たことを知らせるチャイムが鳴るようで、この部屋の主人が帰宅したと思いその女性は迎えに出てきたのだ。
長い髪を後ろでひとつにまとめ、部屋着姿のまま、不思議そうに佳代を見ている。
佳代の心臓が止まりそうになる。
やっぱり、この部屋にいる。
「えっと……。」
言葉が出ない。
女性は一瞬だけ佳代の顔を見つめると、何かを察したように目を細めた。
「もしかして……響のお客さん?」
その言葉に佳代は頷くしかなかった。
「はい……。」
「ごめんなさい。響、まだスーパー。」
「スーパー……?」
「うん。ちょっとお使いを頼んじゃって…。」
あまりにも自然な言葉だった。
まるで、この家の奥さんみたいに。
胸がズキリと痛む。
「立ち話も何だから入って。」
断る理由も見つからず、佳代は部屋へ入った。
リビングには昨日の女の子が床いっぱいに積み木を広げて遊んでいる。
佳代を見るなり、にこっと笑った。
「こんにちは!」
「あ……こんにちは。」
笑った目元がどこか響に似ているような気がして、暗く重たいものが胸の奥に住みつき始めたが、それでも子どもの無邪気さだけが、この部屋で唯一救いだった。
「ママー、おねえちゃん?」
ママ。
その一言が胸に突き刺さる。
やっぱり。
昨日抱き上げていた子のお母さんなんだ。響に似ているということは……
私は静かに覚悟を決めたその時だった。
女の子が積み木を持ったまま言う。
「ひびきにぃ、まだ?」
……にぃ?
佳代は思わず顔を上げる。
女性は苦笑して娘の頭を撫でた。
「もうすぐ帰ってくるよ。」
そして佳代へ向き直る。
「ごめんね。」
「この子、響が…、お兄ちゃんが大好きなの。」
その一言で、佳代の頭の中に小さな違和感が生まれる。
お兄ちゃん……?
そこへ玄関のドアが閉まる音がし、人が入ってきた。
「ただいまー。」
響の声だった。
買い物袋を提げた響がリビングへ入った瞬間、
佳代と目が合う。
「……あ。来るの早かったな。」
佳代は固まったままだった。
「……もぅ、わかっただろ?」
佳代に向けて独り言のように呟いたが本人の口から何の説明もなく何を分かれと言うのだろう。響の言葉が聞こえなかったのか、香里奈は笑いながら言う。
「びっくりしたわよ。急に可愛い子が訪ねてくるんだもの。」
響は額に手を当てて苦笑した。
「……いつまで家にいんの?とっとと帰れば?」
「まだ帰らないっ!だって、私悪くないもんっ!」
響はため息をついてソファへ腰を下ろす。
「…迎えに来させるか。」
その時、
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴ると響は今来たばかりの廊下を戻り白髪の混じった男性と一緒に戻ってきた。
「悪いな、響。」
その一言だけで、女性の表情が一気に曇る。
「……迎えに来た。香里奈、帰るよ。」
少し疲れたような笑顔だった。
「やだ、帰らない。」
子どものようにそっぽを向く女性。
大人びた見かけとは想像もつかない幼い態度。
佳代の思考が、完全に止まった。
「親父、さっさと連れて行ってくれよ、邪魔だよコイツ。」
わかったと言うように響に軽く手を上げた。
「昨日は言い過ぎた。」
香里奈は腕を組んだまま、ふいっと横を向く。
「まだ怒ってるし、許してないもん!」
「わかってる。……悪かった。」
穏やかな優しい口調だった。そして、男性は苦笑しながら、小さな女の子へ視線を向けるとリビングで遊んでいた女の子がぱたぱたと駆け寄る。
「パパー!」
男性はしゃがみ込み、娘を抱き上げた。
「いい子にしてたか?」
「うん!」
その笑顔を見て、佳代は昨日の駅での光景を思い出す。
あの子が響に飛びついた姿。
抱き上げられたときの嬉しそうな笑顔。
――やっぱり、似てる。
そう思った瞬間だった。
「響。」
男性が顔を上げる。
「また、迷惑かけてしまったな…。」
「別に。」
響は苦笑しながらソファから立ち上がった。
「姉ちゃんが家出してくるの、昔からだし。」
佳代の時間が止まる。
……姉ちゃん?
香里奈は照れくさそうに笑った。
「もう、その呼び方やめなさい。」
「無理。」
響は即答する。
「俺の中じゃ、今でも姉ちゃんだから。」
男性は肩をすくめた。
「俺も最初は複雑だったけどな。」
「結婚して何年経っても、『母さん』って一度も呼んでくれない。」
姉ちゃんと呼ばれた女性は再び頬を膨らませ拗ねた。
佳代は思わず響を見ると響は困ったように笑う。
「佳代。ちゃんと紹介する。」
響は瑞穂へ視線を向けた。
「この人は、俺が小さい頃から面倒見てくれてた近所のお姉さん。」
「母親が亡くなってから、親父が忙しかったからさ。夕飯作ってくれたり、宿題見てくれたり…。俺、本当に世話になった。」
香里奈は少し照れながら笑う。
「そんな昔の話。」
「それで数年前に――」
響は父親を見た。
「親父と結婚した。」
佳代は息を呑む。
「え……。」
「だから法律上は義母。でも俺には、昔から姉ちゃん。今さら呼び方なんか変えられない。」
佳代の頭の中で、昨日の景色が少しずつ塗り替えられていく。
駅で抱き締められていたことも。
髪を撫でられていたことも。
家出してきたことも。
全部、家族だからだった。
その時だった。
響の腕の中へ、父親から離れると女の子がまた飛び込んできた。
「ひびきにぃ!」
響は慣れた手つきで抱き上げる。
その横顔を見て、佳代は思わず笑ってしまう。
「……やっぱり。」
「ん?」
「似てる。」
「目元。」
「笑った顔。」
「そっくり。」
響は妹を見て、小さく笑った。
「親父より似てるって、みんなに言われる。」
女の子はきょとんとした顔で響を見つめると、
「ひびきにぃ、だいすき!」
と首へぎゅっと抱きついた。
その無邪気な一言に、部屋中が笑いに包まれた。
バッグからスマホを取り出し、ケースに挟んでいた四つ折りの小さな紙切れを、そっと引き抜いた。
給湯室で響に手渡されたそのメモをゆっくりと開く。
そこに並ぶ数字を、私は何度も、何度も見つめ返した。
――私の誕生日。
その番号が意味するのは彼のマンションのオートロックの解除ナンバーだった。
普段、響はカードキーを使用しているが暗証番号でも解錠できる仕組みなのだ。
それは付き合い始めた頃、何気ない会話の中で「暗証番号って覚えやすい数字にしちゃうんだよな」と笑っていた彼を思い出させた。
ーー私の誕生日を、ずっと……。
そんな些細な事実だけで、さっきまで張り詰めていた心が少しだけ緩んでしまう自分が悔しい。
――こんなので許されると思ってるの?
メモを折り畳みながら小さく唇を噛む。
昨日見た光景は、何一つ説明されていない。
それなのに。
「夜、来い。」
紙の余白に書かれていた殴り書きのような雑な文字。相変わらずの説明不足。
いつもそうだ。
必要以上に喋らない。
だからこそ、私はいつも彼の表情を読んできた。
でも昨日だけは、その表情が読めなかった。というか、いつもと変わらない響がいたような気がした。
もやもやとしたまま気づけば私は響のマンションの前に立っており、空はすっかり群青色へ変わり、エントランスの照明だけが静かに地面を照らしている。
私は深呼吸をひとつすると、オートロックのテンキーへ指を伸ばした。
誕生日を入力する。
『****』
──ピピッ
静かなエントランスで解錠を知らせる電子音と共にロックが外れ、入り口の自動ドアが開いた。
本当に、私の誕生日なんだ……。
胸の奥がまた痛くなる。
ーー嬉しいのか。
ーー悲しいのか。
もう自分でも分からない。
エントランスを抜けてエレベーターホールへと進んだ。
誰もいないエレベーターの中、階数を示す数字がカウントアップされるに連れて不安な気持ちが広がっていく。このまま私たち終わってしまうのだろうか?何度も来た部屋なのに、今日は初めて訪れる場所のように感じた。
ドアの前で立ち止まり、ゆっくり息を吐く。
ドアの解錠のため、再び銀色に光る数字に手を伸ばそうとした、その瞬間。
カチャ。
ドアが少しだけ開いた。
「おかえりぃー!重かったでしょー!……あれ?」
部屋から出てきたのは昨日見た女性だった。
どうやら、エントランスのロックが解錠されるとそのキーを所有する部屋に誰かが入って来たことを知らせるチャイムが鳴るようで、この部屋の主人が帰宅したと思いその女性は迎えに出てきたのだ。
長い髪を後ろでひとつにまとめ、部屋着姿のまま、不思議そうに佳代を見ている。
佳代の心臓が止まりそうになる。
やっぱり、この部屋にいる。
「えっと……。」
言葉が出ない。
女性は一瞬だけ佳代の顔を見つめると、何かを察したように目を細めた。
「もしかして……響のお客さん?」
その言葉に佳代は頷くしかなかった。
「はい……。」
「ごめんなさい。響、まだスーパー。」
「スーパー……?」
「うん。ちょっとお使いを頼んじゃって…。」
あまりにも自然な言葉だった。
まるで、この家の奥さんみたいに。
胸がズキリと痛む。
「立ち話も何だから入って。」
断る理由も見つからず、佳代は部屋へ入った。
リビングには昨日の女の子が床いっぱいに積み木を広げて遊んでいる。
佳代を見るなり、にこっと笑った。
「こんにちは!」
「あ……こんにちは。」
笑った目元がどこか響に似ているような気がして、暗く重たいものが胸の奥に住みつき始めたが、それでも子どもの無邪気さだけが、この部屋で唯一救いだった。
「ママー、おねえちゃん?」
ママ。
その一言が胸に突き刺さる。
やっぱり。
昨日抱き上げていた子のお母さんなんだ。響に似ているということは……
私は静かに覚悟を決めたその時だった。
女の子が積み木を持ったまま言う。
「ひびきにぃ、まだ?」
……にぃ?
佳代は思わず顔を上げる。
女性は苦笑して娘の頭を撫でた。
「もうすぐ帰ってくるよ。」
そして佳代へ向き直る。
「ごめんね。」
「この子、響が…、お兄ちゃんが大好きなの。」
その一言で、佳代の頭の中に小さな違和感が生まれる。
お兄ちゃん……?
そこへ玄関のドアが閉まる音がし、人が入ってきた。
「ただいまー。」
響の声だった。
買い物袋を提げた響がリビングへ入った瞬間、
佳代と目が合う。
「……あ。来るの早かったな。」
佳代は固まったままだった。
「……もぅ、わかっただろ?」
佳代に向けて独り言のように呟いたが本人の口から何の説明もなく何を分かれと言うのだろう。響の言葉が聞こえなかったのか、香里奈は笑いながら言う。
「びっくりしたわよ。急に可愛い子が訪ねてくるんだもの。」
響は額に手を当てて苦笑した。
「……いつまで家にいんの?とっとと帰れば?」
「まだ帰らないっ!だって、私悪くないもんっ!」
響はため息をついてソファへ腰を下ろす。
「…迎えに来させるか。」
その時、
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴ると響は今来たばかりの廊下を戻り白髪の混じった男性と一緒に戻ってきた。
「悪いな、響。」
その一言だけで、女性の表情が一気に曇る。
「……迎えに来た。香里奈、帰るよ。」
少し疲れたような笑顔だった。
「やだ、帰らない。」
子どものようにそっぽを向く女性。
大人びた見かけとは想像もつかない幼い態度。
佳代の思考が、完全に止まった。
「親父、さっさと連れて行ってくれよ、邪魔だよコイツ。」
わかったと言うように響に軽く手を上げた。
「昨日は言い過ぎた。」
香里奈は腕を組んだまま、ふいっと横を向く。
「まだ怒ってるし、許してないもん!」
「わかってる。……悪かった。」
穏やかな優しい口調だった。そして、男性は苦笑しながら、小さな女の子へ視線を向けるとリビングで遊んでいた女の子がぱたぱたと駆け寄る。
「パパー!」
男性はしゃがみ込み、娘を抱き上げた。
「いい子にしてたか?」
「うん!」
その笑顔を見て、佳代は昨日の駅での光景を思い出す。
あの子が響に飛びついた姿。
抱き上げられたときの嬉しそうな笑顔。
――やっぱり、似てる。
そう思った瞬間だった。
「響。」
男性が顔を上げる。
「また、迷惑かけてしまったな…。」
「別に。」
響は苦笑しながらソファから立ち上がった。
「姉ちゃんが家出してくるの、昔からだし。」
佳代の時間が止まる。
……姉ちゃん?
香里奈は照れくさそうに笑った。
「もう、その呼び方やめなさい。」
「無理。」
響は即答する。
「俺の中じゃ、今でも姉ちゃんだから。」
男性は肩をすくめた。
「俺も最初は複雑だったけどな。」
「結婚して何年経っても、『母さん』って一度も呼んでくれない。」
姉ちゃんと呼ばれた女性は再び頬を膨らませ拗ねた。
佳代は思わず響を見ると響は困ったように笑う。
「佳代。ちゃんと紹介する。」
響は瑞穂へ視線を向けた。
「この人は、俺が小さい頃から面倒見てくれてた近所のお姉さん。」
「母親が亡くなってから、親父が忙しかったからさ。夕飯作ってくれたり、宿題見てくれたり…。俺、本当に世話になった。」
香里奈は少し照れながら笑う。
「そんな昔の話。」
「それで数年前に――」
響は父親を見た。
「親父と結婚した。」
佳代は息を呑む。
「え……。」
「だから法律上は義母。でも俺には、昔から姉ちゃん。今さら呼び方なんか変えられない。」
佳代の頭の中で、昨日の景色が少しずつ塗り替えられていく。
駅で抱き締められていたことも。
髪を撫でられていたことも。
家出してきたことも。
全部、家族だからだった。
その時だった。
響の腕の中へ、父親から離れると女の子がまた飛び込んできた。
「ひびきにぃ!」
響は慣れた手つきで抱き上げる。
その横顔を見て、佳代は思わず笑ってしまう。
「……やっぱり。」
「ん?」
「似てる。」
「目元。」
「笑った顔。」
「そっくり。」
響は妹を見て、小さく笑った。
「親父より似てるって、みんなに言われる。」
女の子はきょとんとした顔で響を見つめると、
「ひびきにぃ、だいすき!」
と首へぎゅっと抱きついた。
その無邪気な一言に、部屋中が笑いに包まれた。