月明かりの下で、あなたに恋をした
落ち着いた声だった。どこか疲れているような、けれど穏やかな響き。
「はい。出口が開かなくて」
「俺もです」
男性は困ったように笑った。
その笑顔には、妙な安心感があった。それだけじゃない。
胸の奥がざわめき、心臓の鼓動がわずかに速くなる。なんだろう、この感じ。
「事務所の固定電話で、警備会社に連絡しました。到着まで約60分かかるそうです」
「60分……」
「1階ロビーで待つのが一番安全かと。照明も明るいですし、ソファもあります」
彼の提案は的確で、その落ち着いた態度に私は安堵する。
だが、初対面の男性と誰もいない美術館で60分。同時に緊張もしていた。
二人で並んで薄暗い廊下を歩く。非常灯だけが、私たちの足元を照らしている。
しばらく沈黙が続いた後、男性が口を開いた。
「橘マリの展示、ご覧になりましたか?」
「はい」
「俺も。最終日に間に合って良かったです」
その言葉の響きに、深い思い入れを感じた。
この人、橘マリのファンなんだ。私も……と言いかけて、止める。
初めて会ったのに、なぜかこの人には色々なことを話したくなる。不思議な感覚だった。
◇
今から3時間前──。
「柊。今日中に修正版、3パターン出せるか?」
上司の戸田課長の声に、私は反射的に答えていた。
「はい」
言ってから、心の中で舌打ちする。なぜ、いつも『はい』しか言えないのだろう。