月明かりの下で、あなたに恋をした

落ち着いた声だった。どこか疲れているような、けれど穏やかな響き。

「はい。出口が開かなくて」
「俺もです」

男性は困ったように笑った。

その笑顔には、妙な安心感があった。それだけじゃない。

胸の奥がざわめき、心臓の鼓動がわずかに速くなる。なんだろう、この感じ。

「事務所の固定電話で、警備会社に連絡しました。到着まで約60分かかるそうです」

「60分……」

「1階ロビーで待つのが一番安全かと。照明も明るいですし、ソファもあります」

彼の提案は的確で、その落ち着いた態度に私は安堵する。

だが、初対面の男性と誰もいない美術館で60分。同時に緊張もしていた。

二人で並んで薄暗い廊下を歩く。非常灯だけが、私たちの足元を照らしている。

しばらく沈黙が続いた後、男性が口を開いた。

「橘マリの展示、ご覧になりましたか?」
「はい」
「俺も。最終日に間に合って良かったです」

その言葉の響きに、深い思い入れを感じた。

この人、橘マリのファンなんだ。私も……と言いかけて、止める。

初めて会ったのに、なぜかこの人には色々なことを話したくなる。不思議な感覚だった。



今から3時間前──。

「柊。今日中に修正版、3パターン出せるか?」

上司の戸田課長の声に、私は反射的に答えていた。

「はい」

言ってから、心の中で舌打ちする。なぜ、いつも『はい』しか言えないのだろう。
< 2 / 26 >

この作品をシェア

pagetop