月明かりの下で、あなたに恋をした
オフィスの窓から見える街路樹は、ほとんどの葉を落としていた。
午後7時。私は黒縁眼鏡を指で押し上げ、パソコンの画面を睨む。
クライアントからの修正依頼メール。今日だけで5回目。
『もっとポップに』
『色を派手に。若い女性に刺さるデザインで』
このチョコレートブランドは『大人の上質な時間』がコンセプトのはずだった。
だから私は、落ち着いたトーンでシックなデザインを提案したのに……『地味すぎる』と、一言で却下された。
結局、クライアントが求めているのは『無難で、派手で、目立つもの』。私が本当に作りたいものじゃないけれど、それは言えない。
デスクの向こうで、同期の水野真帆が帰り支度をしている。
「彩葉、また残業? 最近、顔色悪いよ?」
真帆の心配そうな声に、私は笑顔を作った。きっとぎこちない。
「大丈夫。すぐ終わるから」
「……無理しないでね」
真帆はそう言うと、オフィスを出て行った。
彼女は社交的で、明るくて、自分の意見をはっきり言える。私とは正反対だ。
午後9時半。ようやく修正版を提出し、私はオフィスを出た。
駅へ向かう道すがら、スマホでSNSを開くと、美大時代の友人たちの投稿が流れてくる。
個展を開いた友人。フリーのイラストレーターとして活躍している友人。みんな、それぞれの形で「描くこと」を続けている。
……私は?
いいねを押しながら、画面を閉じた。小さな書店の前を通りかかる。
『陽だまり書房』
個人経営らしい、閉店間際の店。ウィンドウに並ぶ新刊絵本の中に、一冊の本が目に留まった。
「『月の見える窓』橘マリ・作」
表紙には、窓辺に座る小さな女の子。月を見上げる横顔が、寂しそうで、でもどこか希望を抱いているような……。
息が止まる。この絵、私が昔描いたものと……似てる。初めて見るはずなのに、ずっと昔から知っているような感覚。
その時、駅前の掲示板が目に入った。
『橘マリ生誕100年記念 絵本原画展
本日最終日 午後10時まで延長開館
市立美術館にて』