月明かりの下で、あなたに恋をした

スマホで時刻を確認する。午後9時40分。美術館まではバスで10分。今から行けば、ギリギリ間に合う。

疲れ切った体が「帰りたい」と訴えている。だけど、心が引っ張られている。本日最終日。これを逃したら、もう二度と──。

私は、バス停へと向かって走り出した。



「着きましたよ」

男性の声で、我に返る。1階ロビー。柔らかい照明が灯り、長いソファが二つ。壁には、橘マリの作品ポスターが飾られている。

私たちは程よい距離を置いて、ソファに座った。近すぎず、遠すぎず。男性は、トートバッグから文庫本を取り出した。

「これ、ミュージアムショップで買ったんです。橘マリの評伝」

本を大切そうに撫でる仕草に、作品への深い愛情が感じられた。私は勇気を出して尋ねる。

「橘マリ、お好きなんですか?」
「ええ。特に『月の見える窓』が」

男性が顔を上げて、微笑んだ。その笑顔に、胸がドキリとする。何だろう、今の。私は慌てて視線を逸らした。

「私も……あの作品が一番、心に残りました」
「そうなんですか」

男性の目が、わずかに輝いた。

「どの辺が好きでしたか?」

こんなこと、誰かに聞かれたのはいつぶりだろう。

私は考えてから答える。
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