社内では言えないけど ―私と部長の秘匿性高めな恋愛模様―
言葉に温もり
 書類の束を傍らに置いて、私はまずデータ入力を開始した。
 だけど、量が量だ。
 このままでは、明日の午前中のうちに分析まで済ませて提出するのは不可能だと観念した。
 午後五時半、定時を迎えたところで、残業する覚悟を固めた。
 ノー残業で帰りたいほどの予定はない。
 早く帰っても、家でテレビを観るくらいだ。
 だから少しくらい残業になっても困らないと、自分に言い聞かせる。
 午後七時には、村重さんが退社した。
 大村さんも、その三十分後に帰っていった。
 午後八時半になると、私の周りには誰もいなくなった。
 私も、残るのは九時までと決めて、パソコンに向かう。
 静まり返ったオフィスに響くのは、私がキーボードを叩く音と書類を捲る音だけ。
 他に音がしない環境は、むしろ集中できていい。
 そうして、しばらく調子よく進められたけど、さすがに目が疲れてきた。
 作業の手を止め、両目頭を指で押さえた、その時。
「今日の最終退社は君か?」
「えっ!?」
 突然頭上から降ってきた声に驚き、私は椅子から飛び退いた。
 顔を上げ、声の主を確認する。
 そこにいたのは、湯浅部長だった。
 私の反応が怪訝なようで、眉をひそめて見下ろしてくる。
 こんな時間に、オフィスに戻ってくる人がいるなんて思わなかった。
 データ入力作業に没頭して、周りを気にしていなかったのもあるけど、部長が戻ってきたことも、そばまで来ていたことも全然気がつかなかった……。
「最終退社。当番表だと、確か男性の名前だったように思うが……」
「あ、最終退社当番……はい。今日は第二チームの田所(たどころ)さんだったんですが、私が残るので代わりました……」
 私はバクバクする胸に手を当て、二度目の質問にしどろもどろに返事をした。
 すると、部長はますます眉間の皺を深くする。
「君は最終退社当番も帰るような時間まで、一人でなにをしている?」
 腕組みをして訊ねられ、私は反射的に身を縮めた。
「あ、あの……データ集計作業を……」
 萎縮して、説明の声が消え入る。
 それでも聞き取れたようで、部長は私のパソコンに目を落とした。
「これは急ぎか?」
「は、はい。明日の午後の会議に必要だそうで……」
「明日の会議資料をこんなギリギリにやっているのか? スケジュール管理能力に問題がありそうだな」
「も、申し訳ありません……!」
 私は全身に冷や汗を掻き、条件反射で頭を下げた。
 すると、
「……と、言いたいところだが」
 部長の声色が穏やかになった気がして、恐る恐る顔を上げる。
 私が姿勢を元に戻すのを待っていたのか、部長は私をまっすぐ見下ろしていた。
< 12 / 104 >

この作品をシェア

pagetop