虐げられていた偽りの姫は(自称底辺の)最強魔術師に甘やかされる
「ええ、うちではSランク級のお嬢さんをご用意することが可能でして──」
アニョロの機嫌はその日のうちに直った。なんでも、ここ最近で一番の太客になりそうな取引先ができたとのことだった。商人として取り扱っているのは様々で、近頃は訳あり少女の扱いまで始めたようだった。大金が入るかもしれないと、アニョロの妻、アデーレに惚気ていたのが壁越しで聞こえた。
ソフィアは息を殺すように、使用人専用の廊下を歩いていた。白い塗料が塗られただけの壁と、人ひとりが通れるだけの狭い通路。石張りの床が延々と続き、ようやく自身に与えられた部屋へとたどり着く。
きちんとした壁紙が貼られているわけでもなければ、家具も粗末なもの。質素な木製のテーブルと使い古されて不揃いな椅子があるだけ。ベッドはなく、椅子に座るか、壁にもたれて寝るか、地べたで寝てしまうか、そのどれかがソフィアの睡眠スタイルだった。
「雨……」
部屋にある唯一の小さな窓には、いくつもの雨だれが流れていた。すっかり暗くなった空から銀色の糸が振り落とされている。
時刻は二十三時。ようやく一日の仕事から解放される時間であり、この五時間後には再び仕事に戻らなければならない。のろのろと服を脱いでいると、テーブルの上にある割れた鏡に、身体が映った。
「これ、いつできた傷なのかしら」
右の横腹あたりに、大きな刺傷のようなものが残っていた。傷からして、相当な大怪我だったはずだが、ソフィアには覚えがない。少なくともチャップマン家に来るより前にはできたはずだが、シャウマン国が滅ぼされたあの一夜を前にして前後の記憶が飛んでしまっている。
「……傷があったところで、私をもらってくれる人なんていないけれど」
きっとこのまま奴隷として生きていくのだろう。
絨毯が敷かれていない床には、手洗い用のスタンドと洗面器が置かれている。そこでソフィアはじっくりと時間をかけ自分を労わるように身体の隅々を洗っていく。最後に歯ブラシで歯を磨いてようやく就寝。すでに日付を超えていた。
そのまま机に伏せ眠りの体勢を整えるが、目を閉じても睡魔が訪れることはない。
「眠れてない?」
翌朝、ホールでモップ掛けをしていると、同じく使用人であるエライザに声をかけられた。ソフィアよりも二歳年上のエラは、使用人の中でも最も信頼できる女性であり、人懐っこい性格が好きだった。
「エラさ……」
呼びかけてハッとする。ここでは使用人同士が名前を呼び合うことは禁じられている。ソフィアは改まって言葉を紡いだ。
「……少々考えごとをしてしまって」
「そう……あまり考えすぎてしまうと身体を壊してしまうからね」
エライザは聖母のように優しかった。そんな彼女が持ち場に戻ろうとする後ろ姿を見てソフィアは違和感を覚えた。
どこか右足を庇うようにして歩いている。昨夜会ったときは異常が見られなかったとすれば、早朝の仕事で足を痛めてしまったのかもしれない。
ソフィアはエライザの右足に意識を集中させた。それから、自分の足へと意識を移す。すると、ソフィア自身の右足が急激に痛みを覚えた。
「いっ、……」
この痛みをエライザが我慢していたのかと思うとソフィアは胸が痛くなる。
ソフィアは気づいたときから他人の怪我を自分に移すことができた。今のように意識して、そのまま自分に移動させるイメージをするだけ。
エライザは不思議そうに右足を見ていたが、すぐにアニョロに呼ばれ慌てて走って行った。
よかった、もしあのまま怪我を負ったままなら、すぐに駆け出すことはできなかっただろう。ソフィアはひっそりと安堵しながら、誰にも右足のことがバレないように仕事を続けた。
「遠慮はるばる足を運んでいただいてありがとうございます。フィレンツェ男爵」
その日、アニョロが首を長くして待ち構えていた太客(になりそうな男)が現れた。どうやら王都の関係者らしく、真っ黒な髪と顔を覆う髭、そして黒いローブという出で立ちでチャップマン家の屋敷へと訪れた。使いのものなのか、男の背後には凛とした女性が佇んでいる。
その光景を、壁に設置された絵画の穴から確認する。これはソフィアの悪趣味ではなく、アニョロが指示したもので、ここから客の特徴、癖などを覚えろと言いつけられていた。
「お招きいただき光栄です、アニョロ殿。早速ですが、例の件、話を進めていただけますかな」
歳は四十代半ば。男爵と呼ばれるということは貴族なのだろう。
ソフィアは事細かく観察しながら、頭の中で記憶を整理していく。忘れてしまわないよう、目に焼きつけるようにじっと見ていると、ふとフィレンツェ男爵の目がこちらを見てハッとした。
目が合ったような奇妙な感覚を覚えながらも、そんなはずはないとソフィアは自分に言い聞かせる。小さな穴と言っても、目視ではわからないほどの穴。絵の誤魔化しがあってか、バレたことは一度だってない。
しかしフィレンツェ男爵は立ち上がり、あろうことかこちらに向かって歩いてくるではないか。
口元を手で覆い、壁から距離を取る。もしバレたりしたら、アニョロからの酷い仕打ちが待っている。
ソフィアはおそるおそる壁の穴を確認する。
「……ほほう。これは立派な絵ですな」
恐れていたことはどうやら杞憂だったようで、フィレンツェ男爵はソフィアの存在ではなく絵画の存在に気を取られているようだった。
「あ、ええ、そうなんです。私の知人に頼んだものでして、まあ有名ではないですが、それなりにいい絵を描くもんですから」
アニョロの額にも冷や汗が滲んでいた。ソフィアの存在に気付かれ、契約が破綻にでもなるんじゃないかと気が気ではなかったからだ。
ふと、壁越しに指でなにかをなぞる音が聞こえてくる。フィレンツェ男爵が絵画を直に触って確かめているのだろうか。それにしては位置がずれているような気配もする。そもそも絵画を触るということはご法度のはずだ。
不思議に思っていると指の動きは止まりフィレンツェ男爵が離れていくのが見えた。
「すみません、話を中断してしまって」
「いえいえ、知人も喜びますから。では、早速例の魔術師選定の女の子を──」
商談が始まる中、ソフィアはそっと壁に触れる。ついさきほど、指でなぞったような気配がしたところに、手のひらを当てる。
「……あれ、温かい」
白塗りされた壁。しかしたしかに温もりを感じる。
アニョロの機嫌はその日のうちに直った。なんでも、ここ最近で一番の太客になりそうな取引先ができたとのことだった。商人として取り扱っているのは様々で、近頃は訳あり少女の扱いまで始めたようだった。大金が入るかもしれないと、アニョロの妻、アデーレに惚気ていたのが壁越しで聞こえた。
ソフィアは息を殺すように、使用人専用の廊下を歩いていた。白い塗料が塗られただけの壁と、人ひとりが通れるだけの狭い通路。石張りの床が延々と続き、ようやく自身に与えられた部屋へとたどり着く。
きちんとした壁紙が貼られているわけでもなければ、家具も粗末なもの。質素な木製のテーブルと使い古されて不揃いな椅子があるだけ。ベッドはなく、椅子に座るか、壁にもたれて寝るか、地べたで寝てしまうか、そのどれかがソフィアの睡眠スタイルだった。
「雨……」
部屋にある唯一の小さな窓には、いくつもの雨だれが流れていた。すっかり暗くなった空から銀色の糸が振り落とされている。
時刻は二十三時。ようやく一日の仕事から解放される時間であり、この五時間後には再び仕事に戻らなければならない。のろのろと服を脱いでいると、テーブルの上にある割れた鏡に、身体が映った。
「これ、いつできた傷なのかしら」
右の横腹あたりに、大きな刺傷のようなものが残っていた。傷からして、相当な大怪我だったはずだが、ソフィアには覚えがない。少なくともチャップマン家に来るより前にはできたはずだが、シャウマン国が滅ぼされたあの一夜を前にして前後の記憶が飛んでしまっている。
「……傷があったところで、私をもらってくれる人なんていないけれど」
きっとこのまま奴隷として生きていくのだろう。
絨毯が敷かれていない床には、手洗い用のスタンドと洗面器が置かれている。そこでソフィアはじっくりと時間をかけ自分を労わるように身体の隅々を洗っていく。最後に歯ブラシで歯を磨いてようやく就寝。すでに日付を超えていた。
そのまま机に伏せ眠りの体勢を整えるが、目を閉じても睡魔が訪れることはない。
「眠れてない?」
翌朝、ホールでモップ掛けをしていると、同じく使用人であるエライザに声をかけられた。ソフィアよりも二歳年上のエラは、使用人の中でも最も信頼できる女性であり、人懐っこい性格が好きだった。
「エラさ……」
呼びかけてハッとする。ここでは使用人同士が名前を呼び合うことは禁じられている。ソフィアは改まって言葉を紡いだ。
「……少々考えごとをしてしまって」
「そう……あまり考えすぎてしまうと身体を壊してしまうからね」
エライザは聖母のように優しかった。そんな彼女が持ち場に戻ろうとする後ろ姿を見てソフィアは違和感を覚えた。
どこか右足を庇うようにして歩いている。昨夜会ったときは異常が見られなかったとすれば、早朝の仕事で足を痛めてしまったのかもしれない。
ソフィアはエライザの右足に意識を集中させた。それから、自分の足へと意識を移す。すると、ソフィア自身の右足が急激に痛みを覚えた。
「いっ、……」
この痛みをエライザが我慢していたのかと思うとソフィアは胸が痛くなる。
ソフィアは気づいたときから他人の怪我を自分に移すことができた。今のように意識して、そのまま自分に移動させるイメージをするだけ。
エライザは不思議そうに右足を見ていたが、すぐにアニョロに呼ばれ慌てて走って行った。
よかった、もしあのまま怪我を負ったままなら、すぐに駆け出すことはできなかっただろう。ソフィアはひっそりと安堵しながら、誰にも右足のことがバレないように仕事を続けた。
「遠慮はるばる足を運んでいただいてありがとうございます。フィレンツェ男爵」
その日、アニョロが首を長くして待ち構えていた太客(になりそうな男)が現れた。どうやら王都の関係者らしく、真っ黒な髪と顔を覆う髭、そして黒いローブという出で立ちでチャップマン家の屋敷へと訪れた。使いのものなのか、男の背後には凛とした女性が佇んでいる。
その光景を、壁に設置された絵画の穴から確認する。これはソフィアの悪趣味ではなく、アニョロが指示したもので、ここから客の特徴、癖などを覚えろと言いつけられていた。
「お招きいただき光栄です、アニョロ殿。早速ですが、例の件、話を進めていただけますかな」
歳は四十代半ば。男爵と呼ばれるということは貴族なのだろう。
ソフィアは事細かく観察しながら、頭の中で記憶を整理していく。忘れてしまわないよう、目に焼きつけるようにじっと見ていると、ふとフィレンツェ男爵の目がこちらを見てハッとした。
目が合ったような奇妙な感覚を覚えながらも、そんなはずはないとソフィアは自分に言い聞かせる。小さな穴と言っても、目視ではわからないほどの穴。絵の誤魔化しがあってか、バレたことは一度だってない。
しかしフィレンツェ男爵は立ち上がり、あろうことかこちらに向かって歩いてくるではないか。
口元を手で覆い、壁から距離を取る。もしバレたりしたら、アニョロからの酷い仕打ちが待っている。
ソフィアはおそるおそる壁の穴を確認する。
「……ほほう。これは立派な絵ですな」
恐れていたことはどうやら杞憂だったようで、フィレンツェ男爵はソフィアの存在ではなく絵画の存在に気を取られているようだった。
「あ、ええ、そうなんです。私の知人に頼んだものでして、まあ有名ではないですが、それなりにいい絵を描くもんですから」
アニョロの額にも冷や汗が滲んでいた。ソフィアの存在に気付かれ、契約が破綻にでもなるんじゃないかと気が気ではなかったからだ。
ふと、壁越しに指でなにかをなぞる音が聞こえてくる。フィレンツェ男爵が絵画を直に触って確かめているのだろうか。それにしては位置がずれているような気配もする。そもそも絵画を触るということはご法度のはずだ。
不思議に思っていると指の動きは止まりフィレンツェ男爵が離れていくのが見えた。
「すみません、話を中断してしまって」
「いえいえ、知人も喜びますから。では、早速例の魔術師選定の女の子を──」
商談が始まる中、ソフィアはそっと壁に触れる。ついさきほど、指でなぞったような気配がしたところに、手のひらを当てる。
「……あれ、温かい」
白塗りされた壁。しかしたしかに温もりを感じる。