虐げられていた偽りの姫は(自称底辺の)最強魔術師に甘やかされる
 しかし、こっそりと入れた喝も見事に打ち砕かれる。ルイスはハンナという名に別の効力がかかっていることを見抜いていた。本来の名と別の名には、その人間にかけられた効力の差が僅かながらに違う。そのため、ルイスはソフィアが別の名を口にしたと一発でわかってしまう。名は体を表す。名前とはそれだけ重要なものだ。

 そんなことを知らないソフィアは、初めてほんとうの名を聞かれたことに、今日一体何度受けたかわからない衝撃を受けていた。

「ほんとうの名は……」

 家族や一部の人間にしか呼ばれることのなかった名。もう自分でも忘れそうになってしまう名。
 名前は、そう言いかけて、ひゅっと喉の奥へと名前が逃げていく。名乗ってしまっていいだろうか。自分は使用人なのに。この家で雇われているだけの人間なのに。

「ルイス様、いい加減に──」

 マージが痺れを切らすと、ルイスは人差し指で口元を抑え、静かにと合図した。
 ルイスはどれだけ時間がかかろうと、ソフィアの名を聞こうとしていた。本来の名が聞ければ、少しは彼女の殻が薄くなるかもしれない。そうすれば、今までどんな過去を背負って生きてきたのかがわかる。

 普段であればちょっとした魔術で、その人の過去を垣間見ることは造作もない。しかしソフィアの場合は特別だった。何重にも覆われた偽りの殻は、たとえ最強魔術師と謳われるルイスでも破ることはできなかったのだ。

 またソフィアも、許されるのであれば、と心を開きそうになっていた。けれども、アニョロの罵声を思い出すたびに、根深いトラウマは消えない。「お前はハンナだ! 奴隷だ!」そう今まで何度も言い聞かせられ、ソフィアにハンナを叩き込んできた。

 言えない。やはり私は誰かに自分の名を名乗ることなんて……。
 ぎゅっと、ソフィアの手をルイスが握った。弾かれるように見上げると、碧く透き通った瞳がソフィアを温かく見つめていた。
 まるで海のよう。なにかも受け止めてくれるようなその瞳に、ソフィアは全てを委ねてしまいそうになる。

「……フィア」

 掠れた声でソフィアはもう一度、自身の名を口にする。

「ソフィアです」

 ようやく聞き出せた彼女の名に、ルイスはソフィアの過去の一部を見ることが許された。
 虐げられるように、それでも懸命に生きてきたこれまでの彼女に、ルイスは胸が痛む。

「……ソフィア。名もきれいだ」

 そう言ってソフィアをそっと抱きしめた。
 そのころ、応接間の外では、蚊帳の外に追い出されたアニョロとその娘、カルメンが目を合わせ息を止めていた。

「お父様……あの方は……」
「ああ……ルイス様だ」
「ルイス様って……まさか、第二王子の?」

 アニョロが力なくうなずくと、カルメンはと奇声を上げ、すぐさま口元を手で覆った。
 第二王子、ルイス。異母とは言え兄弟の中でもとりわけ問題があると噂されていた人物だ。第一王子はすでに婚約済みの中、なぜだか第二王子の婚約者は決まらないと街でも度々噂になっていた。

 社交界にも頻繁に顔を出すカルメンの耳には、ルイスはあえて婚約者をとらないのだと聞かされていたが、正直なにかしら訳があるのではないかと踏んでいた。

 あまり表にも出ることはなく、ルイスの容姿を知るものはいないが、よほど顔に問題があるのか、それとも例の魔術師としての立場に問題があるのではないか。どちらにしても、この国の最強魔術師がモテないはずがない。そして婚約者に困るはずもないのだから、やはりルイスに何かあるとしか思えなかったのだが──。

「かっこいい……」

 カルメンは扉の隙間からちらりと見えた白銀姿の男に一瞬で恋に落ちた。それにより、カルメンの思考は怒涛の疑問が浮かび上がる。

 なぜ婚約者を取らないの?
 いや、そもそもなぜハンナの手なんかを握っていたのかしら?
 知り合い? ハンナがルイス王子と顔見知りなはずがないわ。だとしたらなぜ?

「……まさか」

 ふっと、カルメンの考えは、無数に枝分かれしていっていた疑問から一つの葉に辿り着く。

 ──まさか、まさか、まさか。

 婚約者を探しているの? そして今、その婚約者を見つけてしまったんじゃ?
 あの、ハンナに。

「お父様……ルイス様はなぜここに?」

 わなわなと震えるカルメンとは対照的に、アニョロはルイスの魔術から足の自由を取り戻していた。そして愛しの娘になんと伝えるべきか、たらりと冷や汗が輪郭をなぞる。

「いやあ……うちの商品を、知りたいと言ってな」

 カルメンはアニョロが最近始めた新商品を知らない。まさか自分の父が若い少女を高額な値段で売り捌いているなど夢にも思わない。

「じゃあ、あのハンナに会いに来たわけではないのね?」
「ハンナ? ああ、紅髪の。そんなはずはない。……なぜか、あの場にいることを見抜いていたようだが」
「でしたら!」

 カルメンがアニョロの両手をそっと包み込む。まるで扉を隔てた向こうにいるルイスがソフィアにするように。

「私をルイス様に紹介していただけませんか?」

* * *

「という訳で、底辺魔術師の僕をもらってくれる女性などこの世には一人もいなくてね」

 カルメンがアニョロに哀願するよう頼み込んでいるとき、中ではルイスによる自作自演の悲劇ストーリーがソフィアのために開催されていた。

「そんな……生まれたころから身寄りもないなんて」

 胡散くささ満載の話を、ソフィアは呆れるどころか涙を滲ませながら聞いている。まさか自分が騙されているなど微塵も思っていない。

「ああ、両親の顔も知らないんだ。それでも、神は見てくれていると僕は信じて、必死で魔術や、剣術、それに知識だって、自分が手を伸ばせることはなんでもしてきた。そうしたら、どこにいるかわからない両親は立派になった僕を見て安心してくれると思うんだ」

 とんだ嘘つきだな、とマージはルイスの思いつきによる悲劇劇場を退屈そうに眺めていた。
 そもそもルイスを虎視眈々と狙う女性は多く、実際ルイスの顔を知る人間からの婚約の申し込みは後を絶たない。にも関わらず「興味なし」の一点張りで拒否してきたのはほかでもないルイス自身であった。

 そして、ルイスの両親は今も健在で、王都の宮殿で仲睦まじく生活をしているのだ。もちろん、つい先日も三人で楽しそうにお茶会を開いていたではないか。

 魔術や剣術、そして教養に関しては、ルイスの父である現、王の教育方針でみっちりと叩き込まれたもので、どれも過酷だったからか、今では「思い出すだけで反吐が出そう」と爽やかな笑顔を吐き捨てるパターンは恒例だ。

 つまるところルイスは、ソフィアに何一つ真実を語ることなく、ソフィアに取り入るために偽っているだけのどうしようもない主人ということになる。

 ……しかし、とマージは思う。
 ここまで熱烈にルイスが誰かに夢中となる姿を、マージはこれまで一度だって見たことがない。女性には興味がなく、このまま独り身でいるのではないかと囁かれている人間とはとても思えない。

 なぜ、この女性なのだろうか。

 マージの目には、ソフィアが特別なにか秀でているようには見えなかった。顔の素材は悪くないにしても、奴隷という立場であったり、ルイスを王子だと知らないことを見るあたり、常識とは少し逸材している存在だ。とてもルイスの婚約者候補にはならない。

「だから、君を買い取りたいんだ。いや、買い取るなんて野暮な言い方はやめよう」

 ルイスはしっかりとソフィアの目を見つめながら言う。

「僕の宝石になってくれないか?」
「え……」

 私は試されているのだろうか。なぜこんなことになっているのか。
 ソフィアがそう思った矢先、応接間の扉がきぃと微かな音を立てて開く。その先には追い出されたばかりのアニョロと、頬を赤く染めたカルメンが立っていた。

「あ、あのう……ルイス様。お話の最中にその、大変恐縮ではございますが」

 数十分前まで、ルイスに商談を持ちかけていた人物とは思えないアニョロが、いいづらそうにカルメンをちらりと見る。

「私の一人娘、カルメンです。ルイス様を見て、ぜひ一度お話がしたいと」

 アニョロの背後でもじもじとしていたカルメンは、今朝まで着ていたドレスから自身の一番のお気に入りである気合いの入ったドレス姿で前に出た。

「お初にお目にかかります、ルイス様。カルメンと申します」

 ルイスの瞳がすぅと細くなる。カルメン。たいそう大事に育てられ、私利私欲のために生きてきたような過去が垣間見える。ソフィアに対してもかなり酷い行いをしてきたようで、つい最近の紅茶事件もルイスの魔術によってしっかりと暴かれていた。
 そんなことも知らないカルメンは、とことことルイスの前に立っては、ソフィアを握っているルイスの手を握った。

「こんなこと、初めてお会いしたルイス様に申し上げるのはお恥ずかしいのですが」

 ソフィアの手からもぎとるようにしてルイスの手を奪う。ほしいものはなんでも手にしてきたカルメンの手元には今、ルイスの温かできれいな手がある。

「どうか私と、今度お茶でもしていただけませんか? その、じっくりとルイス様のことが知りたいのです」

 きゃあ、と乙女のような反応を見せるカルメンに、ルイスは微笑を崩すことはなく「そうですか」と髪をさらりと揺らした。

「それは光栄です。なにせ僕は、底辺魔術師なので……しかし残念ですが」

 ばしんと、勢いよくカルメンの手を、ルイスは振り払った。
 明確な悪意を孕んだその行為にカルメンは唖然としたが、ルイスはやはり笑みを浮かべていた。そのままルイスはソフィアの肩を優しく引き寄せると、

「ソフィアと婚約するので、そのお誘いはお断りします」

 決定事項です、と言わんばかりの宣言を下し、その場にいる全員をさらなる驚愕の淵へと落としたのだった。
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