悪女な私とは婚約破棄してください。なのに、冷徹社長の猛愛からは逃げられない
 とっさにビジネスバッグからドライブ用サングラスを取り出したのは、婚約者として彼女の前に立つ覚悟がすぐにはできなかったからだ。それから、神室家の令嬢という立場でないときの彼女がどんな女性なのか少し興味が湧いた。
 客のふりして入店し意味もなくショーケースを眺めていると、カップルの接客を終えた志桜がこちらに近づいてくる。

「いらっしゃいませ」

 顔の印象は記憶より大人びたが、声は変わっていない。電話ごしに聞いた『おめでとうございます』がふいに耳に蘇った。

「カラーストーンをお探しでしょうか?」

 彼女にそう言われて初めて、自分が見おろしていた一角はルビーやエメラルドなど、色のついた石のコーナーだったのだと気がつく。

「いや、そういうわけでは」

 楓が声を発しても、志桜はその正体が自身の婚約者とは気づかない。ほんの少し寂しさを感じた自分の滑稽さに楓は眉をひそめた。

(会話したのは、あの電話が最後だ。覚えていろというほうが無茶だ)

 自分を純粋な客だと信じている彼女は、親切に声をかけてくれる。

「ダイヤモンドでしたら、あちら。パールはその奥になります。贈りものですか?」

 客ではない、冷やかしだとはとても言えず、楓は曖昧な返事でにごした。
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