妖精渉る夕星に〜真摯な愛を秘めた外科医は、再会した絵本作家を逃さない〜
「山之内さんが書いていた小説、いつか完成したら読ませてって言ったの、覚えてない?」

 花梨は目を見開いた。会話の中での一瞬の出来事。まさかあの約束を彼がまだ覚えているとは思わなかった。

「俺は忘れてないよ。今でも山之内さんの小説を読むのを楽しみにしてるんだ」

 その言葉に胸が痛くなる──あの日から小説の続きを書けなくなってしまった。たぶん心の片隅で、北斗を意識しながら書いていたのだろう。その関係が崩れたことで、小説の中の二人を最後まで書く気力が失われたのだ。

「……もう書いてない」

 そう言うと、北斗は目を見開いた。

「どうして?」
「書くのが怖くなったの……もう傷付きたくないから書けなくなったの。それに誰とでもキスが出来ちゃうような人になんて、もし書けたとしても絶対に見せたくない……」
「それか……書けなくなったのは、俺が原因ってこと? だからあれは誤解なんだよ。俺は嘘なんかついていない。山之内さんだってわかってるだろ⁈」

 花梨は唇をギュッと噛み締めた。そう、本当はわかってる──それでもそう言わないと心が折れてしまいそうだった。認めるということは、彼への感情を認めることと同じなのだ。今さらそんなことをすれば、隠してきた感情が溢れ出し、きっと自分でも制御出来なくなるに違いない。

「……そんなの……わからないよ。お願いだから、もう関わって来ないで」

 花梨は北斗の胸を両手で押し退けると、大通りに向かって走り出した。

「山之内さん!」

 北斗の声が聞こえたが、足を止めることはなかった。そして道路を走ってきたタクシーを止めて乗り込むと、ドライバーに自宅の住所を告げる。タクシーはすぐに走り出し、葬儀場を後にした。背もたれに寄りかかり、ホッとしたような、悲しいような、複雑な感覚に陥る。

 よく考えてみたら、キス現場を目撃したあの日から、彼の顔を一度も正面から直視出来ていなかった。顔を見れば彼への想いを自覚して、自分がしてしまったことに対する罪悪感に苛まれるのはわかっている。

『山之内さんと繋がっていたかった。だからあれで終わりになんてしたくなかったんだ。だから誤解を解いて、もう一度やり直したい』

 その言葉に対し、口からは『今さら』と言ったのに、心はそれとは違う反応をしていた。顔を見なくても、声を聞くだけで、今も彼のことが好きなのだと自覚する。再び彼と友だちになるなんて出来る? ──逆に苦しくなるだけに違いない。

 窓の方を向き、流れていく車窓に目をやる。何故か涙が出そうになる瞳を閉じ、これで良かったのだと自分自身に言い聞かせた。
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