妖精渉る夕星に〜真摯な愛を秘めた外科医は、再会した絵本作家を逃さない〜
* * * *

 花梨は少しふわふわとした気持ちで自宅のキッチンに立っていた。今日はカレー。野菜を炒めた鍋に水を入れ、沸騰する湯の中で揺れる野菜をぼんやりと眺めながら、ふと北斗のことを思い出して頬が熱くなるのを感じた。

 北斗の格好良さに気付いたのがついこの間。その人と同じ部になって、お喋りをして……会うたびにドキドキが増えていくのを感じていた。

 見た目だけで人を判断することはしたくなかったから、話したこともない人に興味を持つなどあり得なかった。

 それが今はどうだろう。彼の本質に触れ、自分の作品を読みたいと言ってくれた北斗に、少しずつ惹かれ始めている自分がいる。

「花梨?」

 背後から突然母の声が聞こえ、花梨はハッと我に返った。

「な、何?」

 振り返ると、母が寝転がっていたソファから起き上がり、心配そうに花梨を見つめている。

「大丈夫? 全然動かないからびっくりしちゃった。そろそろルーを入れた方がいいんじゃない?」
「ルー……あぁ、そうだ、忘れてた」

 そう言うとコンロの火を止め、テーブルに置いてあった箱からカレーのルーを取り出して鍋に放り込む。お玉でかき混ぜると、部屋中にカレーのいい香りが広がっていく。

「どうしたの? 何か考え事?」
「ううん、なんでもないよ。ちょっと疲れてボーっとしてただけ。お母さんこそ、起き上がって平気?」
「今は眩暈もないし大丈夫」

 母親は花梨に笑顔を向けたが、ずっと寝ていたからか顔色は良いとはいえない。いつになったら体調が落ち着くのだろう……ずっとこのままだったらどうしよう──言葉に出来ない不安を覚えたが、それを悟られないように笑顔を作った。

「もう少し煮込んだら、真凛(まりん)のお迎えに行ってくるね」
「いつもごめんね。ありがとう」

 母は申し訳なさそうに言うと、再びソファに寝転んだ。

 大丈夫。きっとお母さんは良くなる。そうしたらまた前みたいに過ごせるようになるはずだから、今は私が頑張らないと──そう自分に言い聞かせると、目の奥が熱くなるのをギュッと堪えた。学校も勉強も家事もやるのは、正直に言えば辛かった。テストの点は悪かったし、部活もままならない。でもそのことを口に出してはいけないような気がして、心の奥底にしまい込む。

 その時、ふと頭に北斗の笑顔が浮かんできた。すると不思議と胸が温かくなり、私なら頑張れる──自分を応援してくれる人がいると思うだけで、心がすっと軽くなり、強くなれる気がした。
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