辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする
『忙しい都会の雰囲気についていかなきゃって、ときどきしんどくなる。沙耶は素朴で優しい雰囲気だから、一緒にいるとすごく楽だよ』
 そんなふうに言ってくれていたのに、彼はいつの間にか、沙耶を『地味でまじめすぎて、一緒にいてもつまらない』と思うようになっていたのか。
(私は省吾くんと一緒にいて、そんなふうに思ったことなかったのに)
 食品会社で働いているのに、好き嫌いが多い省吾。そんな彼が苦手な食材を食べられるように工夫するのが楽しかった。
 週末は沙耶の部屋で過ごすことが多かったけど、〝スイーツフェア〟とか〝肉フェス〟とか、食べ物関連のイベントがあるときは、彼を誘って一緒に出かけた。家を出るまでは『出かけるなんて面倒だ』と言っていた省吾が、会場に着いたら、沙耶と一緒にお腹がはち切れそうなくらい食べて……。
 彼と過ごした時間が、記憶が、次々に蘇る。
(まだ泣いちゃダメ)
 目頭にギュッと力をこめて、違うことを考えようとした。けれど、すぐに省吾との思い出が蘇ってきて、涙がこぼれそうになる。必死で耐えているうちに、気づけば両側のドアが開いて、車内アナウンスが流れていた。
「この電車は当駅止まりです。お忘れ物のないようご注意ください。この電車は折り返さず、車庫に参ります――」
 沙耶はハッとして立ち上がった。いつの間にか終点に着いていた。
 あわててホームに降りて、大きく息を吐き出す。次の電車を待とうとして、ふと視線を外に向けたら、駅のフェンス越しに隣接する大きな公園が見えた。
 今こんな状態で、省吾の荷物が残る部屋に帰る勇気は、とてもじゃないが出ない。
 懸命に涙をこらえながら改札を出て、駅前の通りを歩いた。すぐに公園の入り口が見えてくる。
 公園を囲うイチョウ並木はまだ青々としていて、砂場の横にある広場では、小さな子どもたちがボールを追いかけて遊んでいた。近くのベンチには、その子たちを見守るように、母親らしき女性が数人座っている。
 人がいない場所を探して、沙耶は広場から離れるように歩いた。しばらくすると木陰に誰も座っていないベンチが見えてきた。そこに腰を下ろしたとたん、視界がにじむ。
「……うっ」
 こらえきれなくなって、膝に肘をついて両手で顔を覆った。涙はあとからあとからあふれてくる。
 涙と一緒に、省吾への想いも流れて消えてしまえばいいのに。
 下唇を噛んで声を抑え、ただただ涙を流す。
 けれど、傷ついたばかりの心は、ヒリヒリと痛い。
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