辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする
 いっそう強く唇を噛みしめたとき、すぐ前で誰かが立ち止まる足音がした。続いて男性の落ち着いた低い声が聞こえてくる。
「どうされましたか?」
(え?)
 驚いてそっと指の間から覗くと、白いシャツにスーツのパンツを着た三十代前半くらいの男性が、ベンチの前で片膝をついていた。清潔感のある黒髪、意志の強そうな切れ長の二重の目、すっと通った鼻筋、形のいいやや薄めの唇。シャープな顎のラインが理知的でクールな印象のイケメンが、じっと沙耶を見ている。
「具合が悪いんですか?」
 改めて問われて、急に恥ずかしくなった。
「あ、いえ、どこも悪くありません」
 答えながら視線を逸らしたら、男性の隣に彼と同い年くらいの女性が立っているのに気づいた。白いシャツにチノスカートというカジュアルな格好で、落ち着いた茶色のロングヘアを後頭部で緩くまとめている。優しそうな二重の目をしたきれいな顔立ちの女性だ。
「よかったら、これ使ってください」
 女性が腕にかけていたトートバッグから、水色のハンドタオルを取り出した。沙耶はあわてて胸の前で小さく手を振る。
「だっ、大丈夫です。ありがとうございます」
 沙耶は自分のバッグからハンカチを出して目に押し当てた。けれど、拭っても拭っても、涙はすぐにあふれてくる。
(早く泣きやまなくちゃ、ご迷惑になる)
 焦る沙耶に、女性は膝に両手をついて温かな笑顔を向けた。
「私、この公園の向かいでカフェをやってる神谷(かみや)涼花(すずか)って言います。よかったら、あったかい紅茶かハーブティーを飲んでいきませんか?」
 思いもよらぬことを言われて、沙耶は目からそっとハンカチを下ろした。涼花と名乗った女性が続ける。
「温かいものを飲んだら、きっと気持ちが落ち着きますよ。今はほかにお客さまがいないので、にぎやかしに来てくれると嬉しいです」
 涼花はにっこり微笑んだ。その優しげな表情に、沙耶は胸がじぃんとする。
「じゃあ……そうします」
 沙耶はベンチから腰を上げた。けれど、急に立ち上がったせいで、目まいがして視界が暗くなる。
「あっ」
 倒れる、と思ったときには、伸びてきた手に腰を支えられていた。
「大丈夫ですか?」
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