辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする
「そんなこと言うわけないじゃないか。愛娘の手料理なのに」
「でも、みんなで作ってるんだよ。ハンバーグはチエさんと一緒に捏ねたし」
「そうなのか」
 父はしばらく味わっていたが、ふと手を止めて沙耶に言う。
「そういえば、誕生日は大変だったんじゃないのかい?」
 匠真とどう過ごしたのか訊かれると思ったのに、予想外の問いかけだった。
「大変ってどうして?」
「あの夜、近くで大きな事故があったらして、救急車が何台も来てたよ。廊下の窓から、小早川先生が救急搬入口のところにいるのが見えて驚いたんだ。てっきり沙耶と一緒に過ごしているものだと思ってたから」
 実はあの日以来、匠真に会えていない。月曜日に彼からお詫びのメッセージがあったが、詳しいことは聞かなかったので知らなかった。きっと大変だっただろう。
「直前まで一緒にいたんだよ。ステキな夜景を見せてもらって一緒にご飯を食べたよ」
「そうなのか」
「うん」
 美咲が気遣うように言葉を挟む。
「でも、お医者さまはお忙しいから、大変よねぇ」
 父が思案顔で続ける。
「そうだね。いろいろ気を遣ってあげないといけないだろう。小早川先生、今日はプラチナに来るの?」
「どうかな、わからない」
 沙耶の返事に父が不思議そうにする。
「連絡はないのかい?」
「うん。毎日来るわけじゃないよ。お母さんが言ったばかりじゃない。『お医者さまはお忙しい』って」
「そうか、そうだよなぁ。大病院の大先生だもんな」
 父が言ったとき、店のドアが開いて、女性客が三人入ってきた。
 沙耶は父と美咲に「ゆっくりしていってね」と小声で言うと、笑顔で「いらっしゃいませ」と三人を迎えた。

 父と美咲はランチを食べてコーヒーを飲んだ後、「いつでも遊びにおいで」と沙耶に言って帰っていった。キャリーバッグを引いてしっかり歩く父の後ろ姿を見て、父が元どおりの生活を送れるようになったことを心から嬉しく思う。
(匠真さんには感謝しかないよ……)
 次はいつ会えるだろうか、などと感傷に浸る間もなく、ランチタイムの忙しい時間帯に突入した。客の注文を取ったり、あらかじめ少し煮込んでいたハンバーグに最後の仕上げをしたり、ヒーコが揚げた唐揚げを盛りつけたり……とバタバタ動いているうちに、二時近くになった。
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