となりの領主と悪役令嬢
「婚約は、無かったことにしてほしい。」
エドワードは、まるで挨拶でもするかのように、いつもと変わらぬ様子で私にそう告げた。
……いや、ちょっと待ってほしい。
伯爵令嬢の私が、なぜ男爵家の次男に婚約を破棄されなくてはならないのか。
全く意味がわからない。
逆玉の輿だと、あれほど喜んでいたじゃない。
男爵家は貴族とはいえ爵位持ちの最下位。
しかもエドワードは臆病で情けない性格で、何をやらせても能力がなく、気力にも乏しい。
見た目のことを言わせてもらえば、存在感の欠片もない貧弱な体つきに、お世辞にもかっこいいとは言えない平面的な顔。
……なんで私が振られる側なの?
あまりのショックに、言葉が出てこなかった。
「ルミナ伯爵、君のお父上にはもう伝えている。婚約は内々に進んでいたから、今なら大事にはならないだろう。……なんていうか、まぁ、そういうことだから」
「ちょ、ちょっと待って!」
「なに? 僕が伝えたいことはそれだけだから」
いや、伝えたいことがそれだけで済まされても困る。
自分だけで勝手に決めて、事後報告して終わりって――何よそれ。
簡単に済むような問題じゃないでしょう。
貴方の家が終わるレベルの慰謝料が発生するわよ……。
エドワード、貴方はなんて浅はかなの。
「後学のために聞かせてほしいんだけど。婚約破棄の理由は何?」
「そんなの……クリスタ、君は物怖じせずズバズバものを言うし、いつも僕のことなんて何も考えてないだろう。自分の意見を曲げないし、上から目線だし。怖いし、ぜんぜん淑やかじゃない」
エドワードはぶるぶる震えながら、半泣き状態だった。
いや、青天の霹靂だわ。
エドワードがこんなに長い文章で話せることを知らなかったし、こちらが反論できないような言い分を並べてくるなんて思ってもみなかった。
……けれど、彼の言うことは間違っていない。
私の彼に対する接し方は、まさにそういうものだった。
「けれど、貴方は働かなくても伯爵位が継げるし、領主の義務や責任とか、ややこしいことは全部私がやるから。のんびり暮らしていけばいいだけなのに」
「だから、僕だって領主としてちゃんと仕事したいと思っているのに! 君は初めから無理だって決めつけてるだろう!」
いや、無理でしょう。
簡単な足し算すら怪しい貴方が、帳簿や経営なんてできるはずがない。
――声に出しそうになって、思いとどまった。
さすがに言ってはいけないだろう。
かといって、体力的にも問題がある。
彼は子どもにかけっこで負けていたし、何なら私と剣の勝負をしたら、私が勝つ自信がある。
珍しいくらい、褒めるところがない人だ。
ここで意見を言い合っても平行線。
レベルの低いただの喧嘩になってしまう。
――私の判断ミスだ。
彼には自分の考えがなく、私の言いなりになると決めつけていた。それが間違いだった。
エドワードと結婚すれば、後は自分のやりたいように領地経営できる――そう考えていた。
だから、文句を言わない名前だけの夫が欲しかった。
「……わかりました」
もう、なんだか面倒くさくなって。
なにも考えたくなくて。
そう答えるしかなかった。
「君、貴族令嬢たちの間で何て呼ばれてるか知ってる?“物語に出てくる悪役令嬢そのもの”だってさ」
悪役令嬢?
巷で流行っている恋愛小説に出てくる、あの……ヒロインをいじめて最後は破滅する、性悪女のこと?
思わず口を開いたが、言葉が出てこなかった。
どうして私がそんなふうに言われなければならないの?
何だか呆れを通り越して苛立ってくる。
けれど、愚かだったのは自分だ。
もっとちゃんと相手を選ぶべきだった。
恋愛に興味がないから、誰でもいいと思っていた。
デートも、お茶会も、夜会への同伴も、何ひとつしてこなかった。
――なにもかもすっ飛ばして、結婚しようとした。
それが、私の大きな間違いだった。
1 《ジャック》
王都から二日かけて領地へ戻る。
峠越えは騎乗のままでは難しいため、馬の手綱を引きながら黙々と山道を歩いてきた。
前泊した町を早朝に出発したせいで、護衛たちの疲れもそろそろ出ているだろう。
それでも今日の夕刻には、我が領土――セルリアンに到着する予定だ。
従者たちも、どこか嬉しそうに見える。
ルミナ領に入ると、セルリアンはもう目前。
ノーマン山脈の中腹あたりまで登ったところで、皆に声をかけた。
「この辺りで昼休憩にしよう」
「はい、ジャック様」
天気も良い。
ピクニック気分だな、と思いながら、座り心地の良さそうな木の根元に腰を下ろし、昼食用に持ってきた干し肉をかじった。
ノーマン山脈の南斜面には、果樹園が広がっている。
手入れの行き届いた木々が並び、その景観は見事だ。
ルミナ領の領主は優れた統治によって領内を活気づけ、民は皆平穏に暮らしているという。
果樹を主要産業として成功させ、豊かな土地を築いた――そんな噂を耳にしていた。
「ルミナ伯爵のロベール卿は素晴らしい領地をお持ちですね。特にオリーブが有名で、財政も潤っているとか」
家臣のガストンが、果樹園を見下ろしながら深く息を吸い込む。
彼は俺が幼いころから仕えてくれている三つ上の従士で、強面だが剣の腕は確かだ。
俺にとっては、何より頼りになる側近である。
「ルミナ伯爵とは何度か会ったが、気さくで感じのいい方だった」
そう言うと、ガストンは「そうですね」と頷いた。
「一人娘がおられるそうです。クリスタ嬢。とても美しい令嬢だと聞きました」
「なんだ、また嫁をもらえという話か? 俺はまだ当分、自由でいたい」
冗談交じりに笑う。
二十五を過ぎたころから、縁談の話がひっきりなしに舞い込むようになった。
「まだ遊び足りないのか」と侍従たちにからかわれることもしょっちゅうだ。
別に女が嫌いなわけではない。
若く美しい令嬢たちは、鑑賞する分には素晴らしい。
だが結婚となると、どうにも面倒くさい。
「けれど、そうも言っていられませんよ。舞踏会に呼ばれたではないですか。もう“断るな”って雰囲気でしたよ。二か月後にはまた王都へ行くことになりますね」
ガストンの言葉に、苦笑いする。
宮殿では、独身の貴族たちを集めた大規模な舞踏会が開かれるという。
しかも、今回は王子から直々に「必ず出席するように」とのお達しだ。
王子とは同じ学舎で学んだ旧友だ。
恐れ多いことだが、今も気の置けない友人関係が続いている。
おそらく彼なりに、俺を心配しての舞踏会参加命令なのだろう。
ああいう場は苦手だ。
これ見よがしの宝石、ギラギラした化粧、どこぞの新作ドレスを着た女たちの自慢大会。
そんなものに参加したところで、退屈なだけだ。
若い令嬢たちはここぞとばかりに気合を入れ、目ぼしい結婚相手を探し、ダンスを申し込まれる順番を競っている。
貴族たちは笑顔の裏で互いの悪口を囁き合う。
煩わしいこと、この上ない。
俺はうんざりして、深くため息をついた。
その時。
「ジャック様! 見てください、ひ、東の方です!」
東の草木がざわめき、土煙が上がる。
何かがこちらへ向かって、猛スピードで突っ込んできていた。
従者たちは持っていた食べ物を投げ捨て、すぐに剣を構える。
ガストンが坂を駆け上り、状況を確認した。
「……人が追われています! 誰だ? 子どもか? 大きなイノシシに男の子が追われています! こちらへ向かって逃げてきます!」
東の方を見ると、足場の悪い山道を少年が必死に走っていた。
山賊や敵国の兵でないと分かり、少しだけ胸を撫で下ろす。
だがその後方を、異様に大きなイノシシが一直線に追いかけている。
このままでは、すぐに追いつかれるだろう。
はたして逃げ切れるのか。
全員が息を詰めて、少年の動きを見守った。
少年の行く手には、大きな岩。行き止まりだ。
この距離からでは助けに行こうにも間に合わない。
岩は二メートルはあろうかという高さ。少年は追い詰められた。
「行き止まりだ……!」
誰かが呟いた、その瞬間。
少年は大きな岩の上に、ひらりと身を翻して登った。
そして背中から弓を取り出し、向かってくるイノシシへ矢を放つ。
一本目は胴をかすめ、二本目が額を正確に射抜いた。
あの状況で、二の矢を放てるとは……すさまじい集中力だ。
だが、イノシシは止まらない。
刺さりが浅かったのだ。
少年はすぐさま三本目をつがえた。
巨大な体が、地を震わせながら迫る。
なるほど。
彼はイノシシの直進する習性を利用して、岩に衝突させようとしている。
岩を登れない獣の弱点を見抜いた、見事な判断だった。
イノシシはそのまま岩に突っ込み、ドスン! と地響きを立てた。
「行くぞ!」
俺の号令とともに、騎士たちが一斉に剣を抜いた。
俺を含め、大人五人の騎士が大イノシシへと突進する。
岩に激突したイノシシはよろめいていたが、闘志を失ってはいない。
少年は弓を捨て、短剣を構えて立ち向かおうとしていた。
「下がれ!」
そう叫びつつ、イアンが先陣を切って横腹に斬りかかる。
だが、毛皮が異常に硬く、刃が滑った。
後方から蹴り上げ、両手で剣を振り下ろして首を狙うも、ほとんど傷がつかない。
化け物じみた硬さだった。
それでも全員で斬りかかり、石を投げ、打ち据え――
混乱の中で、俺は少年を後方へ押しやる。
そして、最後の隙を見て心臓を一突き。
鈍い手応えのあと、イノシシは地を震わせながら崩れ落ちた。
……終わった。
戦いは二十分ほどだっただろう。
だが、体感では一刻にも感じた。
巨体の下敷きになったガストンが、苦労して這い出してくる。
あれほどの大物、見たことがない。
「くっそ……たかがイノシシごときに、こんな苦戦を強いられるとは……」
戦場では敵を薙ぎ払うイアンですら、ヘトヘトになって地面に座り込んだ。
「参ったな。こいつ、牛ぐらいあるぞ……化け物だ」
俺も荒い息をつきながら、額の汗を拭った。
「……おい、大丈夫か?」
少年に声をかける。
彼は地面に手をつき、肩で息をしていた。
「……はい……ありがとうございます」
十五歳ほどか。まだ声変わりもしていない。
「すごく勇敢だったな。うちの兵に欲しいくらいだ」
イアンが笑いながら少年の肩を叩く。
「“三日月の大将”と呼ばれている大イノシシです。何年も作物を荒らし、町に大きな被害をもたらしていました」
少年によると、このイノシシは額に三日月形の毛並みを持つ“山の主”だという。
柵を壊し、畑を荒らし、果樹園を全滅させた年もあった。
何人もの猟師や兵が挑んだが、誰一人仕留められなかったらしい。
「こいつには懸賞金がかかっています。金貨三十枚。ふもとの町の役場で受け取ってください」
「金貨三十枚?」
「すげぇな、賞金首か。人間みたいだ」
少年は静かに頷くと、深々と頭を下げた。
そして、そのまま山を下りようとする。
「おい、待て! 賞金どうするんだよ!」
騎士たちが慌てて声を上げる。
「少年。君、名前は? 俺たちはセルリアンの騎士、俺はジャックだ」
俺は辺境伯である身分を伏せ、一介の騎士と名乗った。
爵位を知られて怯えさせても、意味はない。
俺の意図を察した従者たちは、黙っていてくれた。
「……僕は、クリス。賞金はいりません。仕留めたのは貴方たちです」
そう言い残し、少年クリスは振り返らずに山を下りていった。
少し後、彼の知らせを受けた村人たちが縄と荷車を持ってやってきた。
おかげで、二百キロはあろうかというイノシシを麓の町まで運ぶことができた。
山の水で血のついた剣を洗いながら、
「これを一人で運ぶのは無理だな」と笑っていたところだったので助かった。
村人たちは口々に「信じられない」と騒ぎ、イノシシを仕留めたことに歓声を上げた。
誰も成し遂げられなかった偉業を成したと、俺たちは手厚くもてなされた。
酒宴を開くという申し出は、急ぎがあると断った。
代わりに、賞金を受け取ることにした。
ただし……
「もしあの少年が名乗り出てきたら、これを渡してやってくれ」
そう言って、金貨を人数分に分け、彼の取り分を村に託した。
***
セルリアン領に戻ってからしばらくの間、俺たちはイノシシ退治の話で盛り上がっていた。
従者たちにとっても印象深い出来事だったようで、一つの村を救った英雄のような気分に浸り、皆どこか誇らしげだった。
「それにしても、あの少年はいったい何者だったんでしょう? 村人たちも詳しくは知らないようでしたが」
定例会議の席で、ガストンが話を切り出した。
「そうだな。あの弓は相当高価な代物だった。矢も猟師が使うようなものじゃない。戦で使える本格的な武具だ」
村で聞き込みをしてみたが、誰もその少年の素性を知らなかった。
村の者たちは皆、あの山にそんな若者がいたことに驚いていたほどだ。
「どこかの貴族の御曹司かもしれませんね。ルミナ伯爵には息子がいないはずですし……。とはいえ、貴族の息子が山で猟なんて、少し考えにくい。やはり賞金目当ての狩人ですかね」
ガストンの言葉に俺は腕を組んでうなずいた。
確かに、あの少年の立ち居振る舞いは、ただ者ではなかった。
「鍛えがいがありそうな子でした。またルミナに行くことがあれば探してみてもいいかもしれませんね」
「そうだな。近々、視察も兼ねてルミナを訪ねよう。うちは貿易と海の恵みで発展してきたが、農業に関してはルミナの方が一枚上手だ。学ぶべきことも多い」
そう言うと、イアンが首をかしげた。
「話は戻りますが……あの少年、女じゃなかったですか?」
「は?」
皆が一斉にイアンを見た。
「いや、確かに男の格好はしてましたけど、肩を支えた時に、どうも女のような気がして……」
彼は首筋や肩の感触を思い出すように言った。
その言葉に場が静まり返る。だが、誰も笑わなかった。
それぞれの脳裏に、あの“少年”の顔がよみがえっていたのだ。
確かに、あの白い肌、繊細な指先、整った顔立ち……。
声変わり前の少年と思っていたが、もしや――。
「言われてみれば、美しかったな。あの目の色……女のものかもしれん」
「確かに腰も細かったしな」
「女の猟師か? それとも、貴族の弓の名手か……? まさか金持ちの令嬢が狩りを?」
ガストンが半ば冗談めかして言うと、イアンがぽつりとつぶやいた。
「クリスタ嬢……って可能性は?」
「伯爵令嬢の? まさか」
「でも、賞金を断ったんですよ。領地を荒らす害獣を、自ら退治しに来たとしたら……」
俺は思わず笑ってしまった。
「そんなお上品な令嬢が、弓を手に山へ? 聞いたこともないな」
とはいえ、胸の奥がざわついた。
もし本当に、あの少年……いや、あの少女がクリスタ嬢だとしたら。
『じゃじゃ馬な伯爵令嬢』か。
……少し、興味が湧いてきた。
2 《クリスタ》
王都には、亡くなった母の妹である叔母ジャネットが住んでいる。
彼女は、幼くして母を失った私を、まるで実の娘のようにかわいがってくれていた。
毎年、社交界の季節になると、私はこの叔母の屋敷で過ごしている。
「クリスタ、わたくしはあなたを本当の娘のように思っているのよ。結婚がなくなったからといって、気に病むことはありませんわ」
ジャネット叔母様は、レースのハンカチで目元を押さえながら、優しく言った。
婚約破棄――悔しくないと言えば嘘になる。
けれど、愛があったわけではない。
そう思うと、こうして涙を流してくれる叔母に申し訳ない気持ちのほうが強かった。
「あ……えっと。大丈夫ですわ、叔母様。次を探します。前向きが一番ですから」
「そうね、クリスタ! 気を落とさず、明るくいきましょう。人はね、明るい人のところに集まるものよ」
叔母はわざと朗らかに言って、場を和ませようとしてくれている。
その優しさがうれしい反面、胸がチクリと痛む。
落ち込んではいない。
ただ、“また一から探す”ということが、ひどく面倒に思えただけ。
私は叔母に気づかれないよう、そっとため息をついた。
そのとき。
「明るいだけでモテるなら、ハゲは引っ張りだこだな! ハハハッ!」
ドアを勢いよく開けて、叔父様が入ってきた。
頭頂部を手で押さえながら、いつものくだらない冗談を口にして笑っている。
「あなたったら……」と呆れながらも、叔母の口元にも笑みが浮かぶ。
叔父の軽口に救われることは、今までに何度もあった。
この二人がいてくれたおかげで、母がいなくても私は寂しくなかった。
そう思うと、胸がじんと熱くなる。
本当に、感謝しかない。
***
来週は、王宮で舞踏会が開かれる。
ドレスの準備は完璧だ。
薄いグリーンのシフォン生地に、青いバラのモチーフが刺繍された、今季の人気デザイナーの作品。
試着したとき「これだわ!」と、思わず声が出た。
時間がなく、既製品ではあるけれど、十分すぎるほど美しい。
領地に戻れば、こんな華やかなドレスを着る機会などほとんどないのだから。
そう思いながらも、鏡の前でクルリと一回転してみる。
ふわりと広がるスカートに、少女の頃のような高揚が胸に灯った。
しばらくして、叔母が部屋に入ってきた。
「まあ、クリスタ……とても似合っているわ。あなたももう、立派なレディになったのね。感慨深いわ」
優しく微笑む叔母に、思わずこちらも照れくさくなる。
叔母はソファに腰を下ろすと、おもむろにひとつの箱を取り出した。
小ぶりの宝石箱。
古びた銀細工が美しく、どこか神秘的な雰囲気を纏っている。
「これね。あなたのお母様のものなの。とても大切にしていたわ」
「お母様の宝石箱……? 中に宝石が入っているのかしら。とても素敵な箱ね。中を見てみたいわ」
そう言って手に取ると、箱には細かな鍵穴があり、しっかりと閉ざされていた。
叔母は眉根を寄せ、小さく息を吐く。
「その鍵は、もうないの。姉にとってこれは、“開けてはならない箱”だったのよ。だから……鍵は、捨ててしまったのかもしれないわね」
「……開けてはならない?」
どういうこと?
思わず手の中の箱を見つめ直した。
「危険なものが入っているの? それとも……何か、悲しい思い出とか?」
少し背筋が冷たくなり、私は箱をテーブルに戻した。
「叔母様は、中身をご存じなのですか?」
「ええ」
叔母は真剣な面持ちでうなずいた。
わざわざ私に見せに来たのだから、危険なものではないのだろう。
けれど、“開けてはならない”と言いながら“開けてもいい”ような雰囲気もある。
いったい、どういうつもりなのか。
「……もしかして、こじ開けてみろってことですか?」
叔母はしばし黙っていたが、やがて決意したように頷いた。
「ただ、その前に――中身が何なのか、教えておくわね」
「ええ、もちろん。聞かせてください」
そう言うと、叔母の表情がふっと和らぎ、どこか楽しげに見えた。
彼女は私の両手を包み込み、声を潜めて言った。
「この箱の中にはね……媚薬が入っているの。惚れ薬よ」
「……え?」
私は思わず目を見開いた。
「媚薬? どうしてそんなものをお母様が?それに、そんな薬――おとぎ話の中の作り話じゃありませんの?」
半信半疑で尋ねると、叔母は神妙に頷いた。
「媚薬? なぜそんなものをお母様が持っていたんですか?それに、この世の中にそんな薬があるはずありませんわ。おとぎ話じゃあるまいし」
眉をひそめて問いかけると、叔母は静かに頷いた。
「これはね、お母様が“ある人”から預かったものなの。その“ある人”とは……当時の王太子殿下よ」
「王太子殿下……?」
思わず声を失う。
その時代の王太子殿下といえば、病で若くして亡くなったカマル第一王子。
今の国王陛下の兄上にあたる方だ。
私が生まれるよりずっと前の話――伝聞でしか知らない人物。
叔母の話の続きを促すように、私は小さく頷いた。
「カマル殿下は、異国に伝わる“恋の媚薬”――伝説の魔法薬を手に入れたの。そしてそれを、ある女性に使おうとなさったのよ。その女性には……婚約者がいたの」
「えっ、それって……犯罪じゃないですか?」
思わず口を開けたまま固まる。
「自分を好いてくれている相手なら、そんな薬はいりませんし、
嫌がる人に使うなんて、言語道断ですわ」
叔母は苦笑しながらも頷いた。
「そうね。あなたの言う通りだわ、クリスタ。けれど殿下は、どうしても彼女を諦められなかったの。……けれど結局、それは未遂に終わった。殿下はその後、病に倒れ、若くして亡くなられたのよ。――そして、なぜかその媚薬だけが姉の手元に残ったの」
「……殿下の想い人は、お母様だったのですね」
叔母は、ゆっくり頷いた。
「そう。詳しい事情は、もう誰にも分からないわ。けれど、姉――つまりあなたのお母様がそれを保管していた。私も処分してしまおうかと何度も思ったけれど、姉の遺品だったから、あなたが成人したら託そうと決めていたの。燃やしても構わないし、知らなかったことにしてもいい。王室に返す必要も、もうないでしょう」
「……そうですね」
けれど私は、どうしても気になっていた。
王室が秘密裏に入手したという伝説の媚薬。
その存在自体が、ただの作り話ではない気がした。
「叔母様。どうして私に“箱を開けてみろ”とおっしゃったんですか?
ただ処分するだけなら、わざわざ私に渡す必要はなかったはずですわ」
そう問うと、叔母は急にもじもじし始めた。
「……わ、私ね。見てみたいの。どんなものなのか、好奇心が抑えられなくて……」
「……えっ?」
私は呆気に取られた。
緊張していた気持ちが一気に抜けて、思わず苦笑してしまう。
(なんなの、それ。叔母様、ただの好奇心旺盛な人じゃないの!)
「叔母様……開けてもいいんですね?」
「ええ、クリスタ。実際に使うわけじゃないんだもの。
どんなものか一度、見てみてもいいと思うわ」
――ああ、やっぱり。
叔母はひとりでは怖くて開けられなかったのだ。
だから私を“共犯者”にしたかったのね。
「分かりました。どうせ二十年以上前のものですし、効能なんてもう残っていませんわ。……飲んだらお腹を壊すくらいが関の山でしょうし」
「そうね! そうしましょう!」
叔母は、満面の笑みでそう答えた。
箱の中には、それはそれは美しい小瓶が収められていた。
何十年も閉じ込められていたとは思えないほど澄んだ輝きを放ち、
細工の施されたガラスの小瓶には、繊細な金のチェーンが付いている。
まるで首飾りのように、身につけることを前提に作られたものだ。
中には――虹色の光を帯びた液体が、静かに揺れていた。
年月を経てもなお、蒸発することも濁ることもなく、
小瓶の中で光の粒が踊るようにきらめいている。
「うわぁ……美しいわ」
思わず息を呑んで呟くと、隣の叔母も目を輝かせた。
「本当に……綺麗ね」
「とても素敵ですわ!」
私たちはまるで宝石でも見つけたかのように、小瓶を見つめた。
「ええ――まるで、宝石そのものですわね」
その輝きに、これから始まる物語の扉がそっと開いたような気がした。
――ただし、そこに待っていたのは恋と事件が入り混じる、予測不能な大騒動だった。
エドワードは、まるで挨拶でもするかのように、いつもと変わらぬ様子で私にそう告げた。
……いや、ちょっと待ってほしい。
伯爵令嬢の私が、なぜ男爵家の次男に婚約を破棄されなくてはならないのか。
全く意味がわからない。
逆玉の輿だと、あれほど喜んでいたじゃない。
男爵家は貴族とはいえ爵位持ちの最下位。
しかもエドワードは臆病で情けない性格で、何をやらせても能力がなく、気力にも乏しい。
見た目のことを言わせてもらえば、存在感の欠片もない貧弱な体つきに、お世辞にもかっこいいとは言えない平面的な顔。
……なんで私が振られる側なの?
あまりのショックに、言葉が出てこなかった。
「ルミナ伯爵、君のお父上にはもう伝えている。婚約は内々に進んでいたから、今なら大事にはならないだろう。……なんていうか、まぁ、そういうことだから」
「ちょ、ちょっと待って!」
「なに? 僕が伝えたいことはそれだけだから」
いや、伝えたいことがそれだけで済まされても困る。
自分だけで勝手に決めて、事後報告して終わりって――何よそれ。
簡単に済むような問題じゃないでしょう。
貴方の家が終わるレベルの慰謝料が発生するわよ……。
エドワード、貴方はなんて浅はかなの。
「後学のために聞かせてほしいんだけど。婚約破棄の理由は何?」
「そんなの……クリスタ、君は物怖じせずズバズバものを言うし、いつも僕のことなんて何も考えてないだろう。自分の意見を曲げないし、上から目線だし。怖いし、ぜんぜん淑やかじゃない」
エドワードはぶるぶる震えながら、半泣き状態だった。
いや、青天の霹靂だわ。
エドワードがこんなに長い文章で話せることを知らなかったし、こちらが反論できないような言い分を並べてくるなんて思ってもみなかった。
……けれど、彼の言うことは間違っていない。
私の彼に対する接し方は、まさにそういうものだった。
「けれど、貴方は働かなくても伯爵位が継げるし、領主の義務や責任とか、ややこしいことは全部私がやるから。のんびり暮らしていけばいいだけなのに」
「だから、僕だって領主としてちゃんと仕事したいと思っているのに! 君は初めから無理だって決めつけてるだろう!」
いや、無理でしょう。
簡単な足し算すら怪しい貴方が、帳簿や経営なんてできるはずがない。
――声に出しそうになって、思いとどまった。
さすがに言ってはいけないだろう。
かといって、体力的にも問題がある。
彼は子どもにかけっこで負けていたし、何なら私と剣の勝負をしたら、私が勝つ自信がある。
珍しいくらい、褒めるところがない人だ。
ここで意見を言い合っても平行線。
レベルの低いただの喧嘩になってしまう。
――私の判断ミスだ。
彼には自分の考えがなく、私の言いなりになると決めつけていた。それが間違いだった。
エドワードと結婚すれば、後は自分のやりたいように領地経営できる――そう考えていた。
だから、文句を言わない名前だけの夫が欲しかった。
「……わかりました」
もう、なんだか面倒くさくなって。
なにも考えたくなくて。
そう答えるしかなかった。
「君、貴族令嬢たちの間で何て呼ばれてるか知ってる?“物語に出てくる悪役令嬢そのもの”だってさ」
悪役令嬢?
巷で流行っている恋愛小説に出てくる、あの……ヒロインをいじめて最後は破滅する、性悪女のこと?
思わず口を開いたが、言葉が出てこなかった。
どうして私がそんなふうに言われなければならないの?
何だか呆れを通り越して苛立ってくる。
けれど、愚かだったのは自分だ。
もっとちゃんと相手を選ぶべきだった。
恋愛に興味がないから、誰でもいいと思っていた。
デートも、お茶会も、夜会への同伴も、何ひとつしてこなかった。
――なにもかもすっ飛ばして、結婚しようとした。
それが、私の大きな間違いだった。
1 《ジャック》
王都から二日かけて領地へ戻る。
峠越えは騎乗のままでは難しいため、馬の手綱を引きながら黙々と山道を歩いてきた。
前泊した町を早朝に出発したせいで、護衛たちの疲れもそろそろ出ているだろう。
それでも今日の夕刻には、我が領土――セルリアンに到着する予定だ。
従者たちも、どこか嬉しそうに見える。
ルミナ領に入ると、セルリアンはもう目前。
ノーマン山脈の中腹あたりまで登ったところで、皆に声をかけた。
「この辺りで昼休憩にしよう」
「はい、ジャック様」
天気も良い。
ピクニック気分だな、と思いながら、座り心地の良さそうな木の根元に腰を下ろし、昼食用に持ってきた干し肉をかじった。
ノーマン山脈の南斜面には、果樹園が広がっている。
手入れの行き届いた木々が並び、その景観は見事だ。
ルミナ領の領主は優れた統治によって領内を活気づけ、民は皆平穏に暮らしているという。
果樹を主要産業として成功させ、豊かな土地を築いた――そんな噂を耳にしていた。
「ルミナ伯爵のロベール卿は素晴らしい領地をお持ちですね。特にオリーブが有名で、財政も潤っているとか」
家臣のガストンが、果樹園を見下ろしながら深く息を吸い込む。
彼は俺が幼いころから仕えてくれている三つ上の従士で、強面だが剣の腕は確かだ。
俺にとっては、何より頼りになる側近である。
「ルミナ伯爵とは何度か会ったが、気さくで感じのいい方だった」
そう言うと、ガストンは「そうですね」と頷いた。
「一人娘がおられるそうです。クリスタ嬢。とても美しい令嬢だと聞きました」
「なんだ、また嫁をもらえという話か? 俺はまだ当分、自由でいたい」
冗談交じりに笑う。
二十五を過ぎたころから、縁談の話がひっきりなしに舞い込むようになった。
「まだ遊び足りないのか」と侍従たちにからかわれることもしょっちゅうだ。
別に女が嫌いなわけではない。
若く美しい令嬢たちは、鑑賞する分には素晴らしい。
だが結婚となると、どうにも面倒くさい。
「けれど、そうも言っていられませんよ。舞踏会に呼ばれたではないですか。もう“断るな”って雰囲気でしたよ。二か月後にはまた王都へ行くことになりますね」
ガストンの言葉に、苦笑いする。
宮殿では、独身の貴族たちを集めた大規模な舞踏会が開かれるという。
しかも、今回は王子から直々に「必ず出席するように」とのお達しだ。
王子とは同じ学舎で学んだ旧友だ。
恐れ多いことだが、今も気の置けない友人関係が続いている。
おそらく彼なりに、俺を心配しての舞踏会参加命令なのだろう。
ああいう場は苦手だ。
これ見よがしの宝石、ギラギラした化粧、どこぞの新作ドレスを着た女たちの自慢大会。
そんなものに参加したところで、退屈なだけだ。
若い令嬢たちはここぞとばかりに気合を入れ、目ぼしい結婚相手を探し、ダンスを申し込まれる順番を競っている。
貴族たちは笑顔の裏で互いの悪口を囁き合う。
煩わしいこと、この上ない。
俺はうんざりして、深くため息をついた。
その時。
「ジャック様! 見てください、ひ、東の方です!」
東の草木がざわめき、土煙が上がる。
何かがこちらへ向かって、猛スピードで突っ込んできていた。
従者たちは持っていた食べ物を投げ捨て、すぐに剣を構える。
ガストンが坂を駆け上り、状況を確認した。
「……人が追われています! 誰だ? 子どもか? 大きなイノシシに男の子が追われています! こちらへ向かって逃げてきます!」
東の方を見ると、足場の悪い山道を少年が必死に走っていた。
山賊や敵国の兵でないと分かり、少しだけ胸を撫で下ろす。
だがその後方を、異様に大きなイノシシが一直線に追いかけている。
このままでは、すぐに追いつかれるだろう。
はたして逃げ切れるのか。
全員が息を詰めて、少年の動きを見守った。
少年の行く手には、大きな岩。行き止まりだ。
この距離からでは助けに行こうにも間に合わない。
岩は二メートルはあろうかという高さ。少年は追い詰められた。
「行き止まりだ……!」
誰かが呟いた、その瞬間。
少年は大きな岩の上に、ひらりと身を翻して登った。
そして背中から弓を取り出し、向かってくるイノシシへ矢を放つ。
一本目は胴をかすめ、二本目が額を正確に射抜いた。
あの状況で、二の矢を放てるとは……すさまじい集中力だ。
だが、イノシシは止まらない。
刺さりが浅かったのだ。
少年はすぐさま三本目をつがえた。
巨大な体が、地を震わせながら迫る。
なるほど。
彼はイノシシの直進する習性を利用して、岩に衝突させようとしている。
岩を登れない獣の弱点を見抜いた、見事な判断だった。
イノシシはそのまま岩に突っ込み、ドスン! と地響きを立てた。
「行くぞ!」
俺の号令とともに、騎士たちが一斉に剣を抜いた。
俺を含め、大人五人の騎士が大イノシシへと突進する。
岩に激突したイノシシはよろめいていたが、闘志を失ってはいない。
少年は弓を捨て、短剣を構えて立ち向かおうとしていた。
「下がれ!」
そう叫びつつ、イアンが先陣を切って横腹に斬りかかる。
だが、毛皮が異常に硬く、刃が滑った。
後方から蹴り上げ、両手で剣を振り下ろして首を狙うも、ほとんど傷がつかない。
化け物じみた硬さだった。
それでも全員で斬りかかり、石を投げ、打ち据え――
混乱の中で、俺は少年を後方へ押しやる。
そして、最後の隙を見て心臓を一突き。
鈍い手応えのあと、イノシシは地を震わせながら崩れ落ちた。
……終わった。
戦いは二十分ほどだっただろう。
だが、体感では一刻にも感じた。
巨体の下敷きになったガストンが、苦労して這い出してくる。
あれほどの大物、見たことがない。
「くっそ……たかがイノシシごときに、こんな苦戦を強いられるとは……」
戦場では敵を薙ぎ払うイアンですら、ヘトヘトになって地面に座り込んだ。
「参ったな。こいつ、牛ぐらいあるぞ……化け物だ」
俺も荒い息をつきながら、額の汗を拭った。
「……おい、大丈夫か?」
少年に声をかける。
彼は地面に手をつき、肩で息をしていた。
「……はい……ありがとうございます」
十五歳ほどか。まだ声変わりもしていない。
「すごく勇敢だったな。うちの兵に欲しいくらいだ」
イアンが笑いながら少年の肩を叩く。
「“三日月の大将”と呼ばれている大イノシシです。何年も作物を荒らし、町に大きな被害をもたらしていました」
少年によると、このイノシシは額に三日月形の毛並みを持つ“山の主”だという。
柵を壊し、畑を荒らし、果樹園を全滅させた年もあった。
何人もの猟師や兵が挑んだが、誰一人仕留められなかったらしい。
「こいつには懸賞金がかかっています。金貨三十枚。ふもとの町の役場で受け取ってください」
「金貨三十枚?」
「すげぇな、賞金首か。人間みたいだ」
少年は静かに頷くと、深々と頭を下げた。
そして、そのまま山を下りようとする。
「おい、待て! 賞金どうするんだよ!」
騎士たちが慌てて声を上げる。
「少年。君、名前は? 俺たちはセルリアンの騎士、俺はジャックだ」
俺は辺境伯である身分を伏せ、一介の騎士と名乗った。
爵位を知られて怯えさせても、意味はない。
俺の意図を察した従者たちは、黙っていてくれた。
「……僕は、クリス。賞金はいりません。仕留めたのは貴方たちです」
そう言い残し、少年クリスは振り返らずに山を下りていった。
少し後、彼の知らせを受けた村人たちが縄と荷車を持ってやってきた。
おかげで、二百キロはあろうかというイノシシを麓の町まで運ぶことができた。
山の水で血のついた剣を洗いながら、
「これを一人で運ぶのは無理だな」と笑っていたところだったので助かった。
村人たちは口々に「信じられない」と騒ぎ、イノシシを仕留めたことに歓声を上げた。
誰も成し遂げられなかった偉業を成したと、俺たちは手厚くもてなされた。
酒宴を開くという申し出は、急ぎがあると断った。
代わりに、賞金を受け取ることにした。
ただし……
「もしあの少年が名乗り出てきたら、これを渡してやってくれ」
そう言って、金貨を人数分に分け、彼の取り分を村に託した。
***
セルリアン領に戻ってからしばらくの間、俺たちはイノシシ退治の話で盛り上がっていた。
従者たちにとっても印象深い出来事だったようで、一つの村を救った英雄のような気分に浸り、皆どこか誇らしげだった。
「それにしても、あの少年はいったい何者だったんでしょう? 村人たちも詳しくは知らないようでしたが」
定例会議の席で、ガストンが話を切り出した。
「そうだな。あの弓は相当高価な代物だった。矢も猟師が使うようなものじゃない。戦で使える本格的な武具だ」
村で聞き込みをしてみたが、誰もその少年の素性を知らなかった。
村の者たちは皆、あの山にそんな若者がいたことに驚いていたほどだ。
「どこかの貴族の御曹司かもしれませんね。ルミナ伯爵には息子がいないはずですし……。とはいえ、貴族の息子が山で猟なんて、少し考えにくい。やはり賞金目当ての狩人ですかね」
ガストンの言葉に俺は腕を組んでうなずいた。
確かに、あの少年の立ち居振る舞いは、ただ者ではなかった。
「鍛えがいがありそうな子でした。またルミナに行くことがあれば探してみてもいいかもしれませんね」
「そうだな。近々、視察も兼ねてルミナを訪ねよう。うちは貿易と海の恵みで発展してきたが、農業に関してはルミナの方が一枚上手だ。学ぶべきことも多い」
そう言うと、イアンが首をかしげた。
「話は戻りますが……あの少年、女じゃなかったですか?」
「は?」
皆が一斉にイアンを見た。
「いや、確かに男の格好はしてましたけど、肩を支えた時に、どうも女のような気がして……」
彼は首筋や肩の感触を思い出すように言った。
その言葉に場が静まり返る。だが、誰も笑わなかった。
それぞれの脳裏に、あの“少年”の顔がよみがえっていたのだ。
確かに、あの白い肌、繊細な指先、整った顔立ち……。
声変わり前の少年と思っていたが、もしや――。
「言われてみれば、美しかったな。あの目の色……女のものかもしれん」
「確かに腰も細かったしな」
「女の猟師か? それとも、貴族の弓の名手か……? まさか金持ちの令嬢が狩りを?」
ガストンが半ば冗談めかして言うと、イアンがぽつりとつぶやいた。
「クリスタ嬢……って可能性は?」
「伯爵令嬢の? まさか」
「でも、賞金を断ったんですよ。領地を荒らす害獣を、自ら退治しに来たとしたら……」
俺は思わず笑ってしまった。
「そんなお上品な令嬢が、弓を手に山へ? 聞いたこともないな」
とはいえ、胸の奥がざわついた。
もし本当に、あの少年……いや、あの少女がクリスタ嬢だとしたら。
『じゃじゃ馬な伯爵令嬢』か。
……少し、興味が湧いてきた。
2 《クリスタ》
王都には、亡くなった母の妹である叔母ジャネットが住んでいる。
彼女は、幼くして母を失った私を、まるで実の娘のようにかわいがってくれていた。
毎年、社交界の季節になると、私はこの叔母の屋敷で過ごしている。
「クリスタ、わたくしはあなたを本当の娘のように思っているのよ。結婚がなくなったからといって、気に病むことはありませんわ」
ジャネット叔母様は、レースのハンカチで目元を押さえながら、優しく言った。
婚約破棄――悔しくないと言えば嘘になる。
けれど、愛があったわけではない。
そう思うと、こうして涙を流してくれる叔母に申し訳ない気持ちのほうが強かった。
「あ……えっと。大丈夫ですわ、叔母様。次を探します。前向きが一番ですから」
「そうね、クリスタ! 気を落とさず、明るくいきましょう。人はね、明るい人のところに集まるものよ」
叔母はわざと朗らかに言って、場を和ませようとしてくれている。
その優しさがうれしい反面、胸がチクリと痛む。
落ち込んではいない。
ただ、“また一から探す”ということが、ひどく面倒に思えただけ。
私は叔母に気づかれないよう、そっとため息をついた。
そのとき。
「明るいだけでモテるなら、ハゲは引っ張りだこだな! ハハハッ!」
ドアを勢いよく開けて、叔父様が入ってきた。
頭頂部を手で押さえながら、いつものくだらない冗談を口にして笑っている。
「あなたったら……」と呆れながらも、叔母の口元にも笑みが浮かぶ。
叔父の軽口に救われることは、今までに何度もあった。
この二人がいてくれたおかげで、母がいなくても私は寂しくなかった。
そう思うと、胸がじんと熱くなる。
本当に、感謝しかない。
***
来週は、王宮で舞踏会が開かれる。
ドレスの準備は完璧だ。
薄いグリーンのシフォン生地に、青いバラのモチーフが刺繍された、今季の人気デザイナーの作品。
試着したとき「これだわ!」と、思わず声が出た。
時間がなく、既製品ではあるけれど、十分すぎるほど美しい。
領地に戻れば、こんな華やかなドレスを着る機会などほとんどないのだから。
そう思いながらも、鏡の前でクルリと一回転してみる。
ふわりと広がるスカートに、少女の頃のような高揚が胸に灯った。
しばらくして、叔母が部屋に入ってきた。
「まあ、クリスタ……とても似合っているわ。あなたももう、立派なレディになったのね。感慨深いわ」
優しく微笑む叔母に、思わずこちらも照れくさくなる。
叔母はソファに腰を下ろすと、おもむろにひとつの箱を取り出した。
小ぶりの宝石箱。
古びた銀細工が美しく、どこか神秘的な雰囲気を纏っている。
「これね。あなたのお母様のものなの。とても大切にしていたわ」
「お母様の宝石箱……? 中に宝石が入っているのかしら。とても素敵な箱ね。中を見てみたいわ」
そう言って手に取ると、箱には細かな鍵穴があり、しっかりと閉ざされていた。
叔母は眉根を寄せ、小さく息を吐く。
「その鍵は、もうないの。姉にとってこれは、“開けてはならない箱”だったのよ。だから……鍵は、捨ててしまったのかもしれないわね」
「……開けてはならない?」
どういうこと?
思わず手の中の箱を見つめ直した。
「危険なものが入っているの? それとも……何か、悲しい思い出とか?」
少し背筋が冷たくなり、私は箱をテーブルに戻した。
「叔母様は、中身をご存じなのですか?」
「ええ」
叔母は真剣な面持ちでうなずいた。
わざわざ私に見せに来たのだから、危険なものではないのだろう。
けれど、“開けてはならない”と言いながら“開けてもいい”ような雰囲気もある。
いったい、どういうつもりなのか。
「……もしかして、こじ開けてみろってことですか?」
叔母はしばし黙っていたが、やがて決意したように頷いた。
「ただ、その前に――中身が何なのか、教えておくわね」
「ええ、もちろん。聞かせてください」
そう言うと、叔母の表情がふっと和らぎ、どこか楽しげに見えた。
彼女は私の両手を包み込み、声を潜めて言った。
「この箱の中にはね……媚薬が入っているの。惚れ薬よ」
「……え?」
私は思わず目を見開いた。
「媚薬? どうしてそんなものをお母様が?それに、そんな薬――おとぎ話の中の作り話じゃありませんの?」
半信半疑で尋ねると、叔母は神妙に頷いた。
「媚薬? なぜそんなものをお母様が持っていたんですか?それに、この世の中にそんな薬があるはずありませんわ。おとぎ話じゃあるまいし」
眉をひそめて問いかけると、叔母は静かに頷いた。
「これはね、お母様が“ある人”から預かったものなの。その“ある人”とは……当時の王太子殿下よ」
「王太子殿下……?」
思わず声を失う。
その時代の王太子殿下といえば、病で若くして亡くなったカマル第一王子。
今の国王陛下の兄上にあたる方だ。
私が生まれるよりずっと前の話――伝聞でしか知らない人物。
叔母の話の続きを促すように、私は小さく頷いた。
「カマル殿下は、異国に伝わる“恋の媚薬”――伝説の魔法薬を手に入れたの。そしてそれを、ある女性に使おうとなさったのよ。その女性には……婚約者がいたの」
「えっ、それって……犯罪じゃないですか?」
思わず口を開けたまま固まる。
「自分を好いてくれている相手なら、そんな薬はいりませんし、
嫌がる人に使うなんて、言語道断ですわ」
叔母は苦笑しながらも頷いた。
「そうね。あなたの言う通りだわ、クリスタ。けれど殿下は、どうしても彼女を諦められなかったの。……けれど結局、それは未遂に終わった。殿下はその後、病に倒れ、若くして亡くなられたのよ。――そして、なぜかその媚薬だけが姉の手元に残ったの」
「……殿下の想い人は、お母様だったのですね」
叔母は、ゆっくり頷いた。
「そう。詳しい事情は、もう誰にも分からないわ。けれど、姉――つまりあなたのお母様がそれを保管していた。私も処分してしまおうかと何度も思ったけれど、姉の遺品だったから、あなたが成人したら託そうと決めていたの。燃やしても構わないし、知らなかったことにしてもいい。王室に返す必要も、もうないでしょう」
「……そうですね」
けれど私は、どうしても気になっていた。
王室が秘密裏に入手したという伝説の媚薬。
その存在自体が、ただの作り話ではない気がした。
「叔母様。どうして私に“箱を開けてみろ”とおっしゃったんですか?
ただ処分するだけなら、わざわざ私に渡す必要はなかったはずですわ」
そう問うと、叔母は急にもじもじし始めた。
「……わ、私ね。見てみたいの。どんなものなのか、好奇心が抑えられなくて……」
「……えっ?」
私は呆気に取られた。
緊張していた気持ちが一気に抜けて、思わず苦笑してしまう。
(なんなの、それ。叔母様、ただの好奇心旺盛な人じゃないの!)
「叔母様……開けてもいいんですね?」
「ええ、クリスタ。実際に使うわけじゃないんだもの。
どんなものか一度、見てみてもいいと思うわ」
――ああ、やっぱり。
叔母はひとりでは怖くて開けられなかったのだ。
だから私を“共犯者”にしたかったのね。
「分かりました。どうせ二十年以上前のものですし、効能なんてもう残っていませんわ。……飲んだらお腹を壊すくらいが関の山でしょうし」
「そうね! そうしましょう!」
叔母は、満面の笑みでそう答えた。
箱の中には、それはそれは美しい小瓶が収められていた。
何十年も閉じ込められていたとは思えないほど澄んだ輝きを放ち、
細工の施されたガラスの小瓶には、繊細な金のチェーンが付いている。
まるで首飾りのように、身につけることを前提に作られたものだ。
中には――虹色の光を帯びた液体が、静かに揺れていた。
年月を経てもなお、蒸発することも濁ることもなく、
小瓶の中で光の粒が踊るようにきらめいている。
「うわぁ……美しいわ」
思わず息を呑んで呟くと、隣の叔母も目を輝かせた。
「本当に……綺麗ね」
「とても素敵ですわ!」
私たちはまるで宝石でも見つけたかのように、小瓶を見つめた。
「ええ――まるで、宝石そのものですわね」
その輝きに、これから始まる物語の扉がそっと開いたような気がした。
――ただし、そこに待っていたのは恋と事件が入り混じる、予測不能な大騒動だった。