女装メイドの従者と、婚約破棄された悪役令嬢は、幸せな結末を目指します
第10話
「シヴァのこと、ほんとのかぞくだとおもってるのね」
私の言葉に、皆が目を丸くした。部屋に沈黙が走るが、気にせず私は言葉を畳みかけた。
「かぞくだから、しんぱいでこんなにおこってるんでしょう?」
本心が違ったとしても、そうしておけば誰も傷つかないはずだ。失敗を責め続けられてしまう少年も、自責の念から子供に厳しくしすぎてしまう女性もいなくなる。
お願いだから、肯定して。
祈るように、シヴァと繋いでいた手を強く握る。どんな反応が返ってくるか分からず不安がる私の予想とはかけ離れた姿を、彼女は見せた。
「え?」
そう呟くと、彼女は顔を真っ赤にする。堅物な彼女の普段見ることの無い姿に、皆唖然としてしまう。
「そ、そうですね。私の身内? ですし? こういうことは、はっきり言っておかないと我が家の体面が……」
色々言っているけど、その発言は要するに【既にシルヴィオは我が家の子】と完全に思っているのでは? 彼女、もしかしてツンデレ?
思わぬ反応に驚きつつ、笑ってしまう。つられて周囲の皆も笑っていた。
「そんな笑わなくたって……家に年下なんていなくて、どう接すれば良いか……私だって色々悩んで」
話せば話すほど、墓穴を掘っていますよルネさん。
「いや、それなら良かった。半ば無理に君の親類にしたものだから、嫌がってないか心配だったんだ」
「はぁ……」
お父様は笑いながら彼女の肩を叩く。笑いすぎて出た涙を拭うと、お父様は次にシヴァに向き直った。
「良かったな、シヴァ。 彼女はもう君を身内だと認めているぞ」
「それは、ありがとうございます……叔母さん?」
「そんな年じゃないわ!」
「じゃあどう呼べば……」
シヴァに『叔母』と呼ばれて焦る彼女を見て、更に周囲が笑い転げる。
良かった。これは上手くいった。もしかして、シヴァが不幸になるシナリオを1つ潰せたんじゃないだろうか。
楽しげにルネと話すシヴァを見て、私は胸を撫で下ろした。
***
その後、大事な話があるからと私は部屋から追い出されてしまった。残っているのは、お父様とシヴァとルネ。私の部屋なのに、私が追い出されることになるなんてどういうことだ。そう抗議したいが、あの雰囲気を見るに大事な話なのだろう。邪魔するわけにはいかない。
乳母に連れられて軽く朝食を済ませた私は、空いた時間を過ごすために書庫に行った。別にただの暇潰しではない。大切なことなのだ。
今回の事件は、あまりに不自然だった。平民の、それも特に貧相な生活をしている男がわざわざ身なりの良い子供に手を出すだろうか。その後でどんな重い処罰が待っているか分からないのに。
男の様子は明らかにおかしかったし、まともな会話も出来そうに見えなかった。それに、私を連れて行こうとした理由は金銭的な誘拐目的とは思えない。どろりとまとわりつくような視線と熱い吐息。あの視線と空気には、少し覚えがある。
男は、間違いなく発情していた。
いくら美少女とはいえ、たった5歳の女の子にだ。幼女趣味だと仮定しても、おかしなことに変わりはない。それならば、もっと後腐れの無い無害そうな子供を狙うだろう。
それに加えて、リリアンナ・モンリーズのキャラクター設定。幼少期から男性に襲われて男嫌いになったという話。男を狂わせる原因がリリアンナにあったならば、納得出来る。
「みつけなくちゃ」
何度もあんな目に合ったら、誰だって嫌になる。でも、私はそうはなりたくない。ゲーム内のリリアンナと同じ道筋を辿りたくは無いし、それによってシヴァを不幸な目に合わせるわけにはいかないのだ。
幸いなことに、簡単な読み書きは既に習っていた。子供ならば読めても理解出来ないだろうが私は元高校生。5歳の子供よりは賢いつもりだ。本を漁れば、きっと何かヒントになるような記述がどこかにあるはず。
書庫に入ると、山のように積まれた紙の束と壁を埋め尽くす本が目に入る。貴族の書庫ならたくさん本があることは予想出来た。だが、まさかここまで多いとは。
本棚は私の背も大人の身長も超えて高く伸びている。上の本を取るための梯子があちこちにかけられていた。こんな中から見つけられるだろうか。不安に思いつつ、背表紙を眺めていく。
【モンリーズ家家系図No.1】
【経営のための基礎理論】
【経理業務のすすめ】
ダメだ。ここは恐らくモンリーズ家についてや、貴族としての努め、領地経営についての本しかない。隣の棚を見てみよう。
【熱帯動物の生態③】
【地理とそれに伴う気候の全て】
【リヒハイム王国植物図鑑その5】
ここは生態系についてや動植物の図鑑。違う。慣れない文字ばかり見て、だんだん頭が痛くなってきた。
一度休もうと、書庫の中心にあるソファに寝転ぶ。こんな調子で、目的の本は見つかるのだろうか。先行きが不安でため息を漏らした。
「今回のことは、本当に驚いただろう。まだ子供だからと、きちんと説明しなかった私が悪かった」
リリアンナの私室。そこで、当主であるアードリアンは静かに話し出した。ベッドに座ったままのシルヴィオは、静かに話を聞いている。
「まず尋ねよう。シヴァ、君は」
アードリアンのいつになく真剣な表情に、シルヴィオはどんな話をされるのかと緊張でベッドシーツをきつく握りしめた。少しの間を置いて、アードリアンはゆっくりと言葉を発する。
「【魅了】という性質を知っているかい?」
***
あれから毎日のように私は書庫に足を運んだ。慣れない文字は読むのに時間はかかるし頭も使う。嫌になるけれど、頼みの綱はここしかないのだ。お父様や乳母等の大人達は、あの日の事件について何も語らなくなっている。とても今から訊きに行ける雰囲気ではない。
「無い頭捻って毎日懲りないな」
自由時間を共に過ごすシヴァは、私に合わせて書庫に来てくれている。何を探してるのかは、訊かれても教えていない。だって、心配はさせたくないし、たった5歳の女の子が何故こんなことに頭が回るのかなんて言われても、答えようがないんだもの。
「ちゃんとかんがえてるもん!」
「どうだか」
反論するが、彼はからかうような態度で読んでいた本を一冊差し出してきた。訳も分からず、つい受け取ってしまう。
「なに?」
「読めるか?」
失礼な!
馬鹿にした態度に反抗するため、本を開く。細かく並んだ文字に一瞬目眩がするが、負けるものかと踏み留まる。
「この、しょうで、は……かんやく? かんりゃく、てきな、まろう……」
「ああ、うん。無理言って悪かった」
一生懸命読んだのに、呆れられてしまった。一体何が言いたいんだろう。
「何を探してるかは知らないが、この一文読むのにこんだけ時間かけてたら一生終わらねぇぞ」
正論を言われてぐうの音も出ない。まさしく完敗だ。
会話は不思議と成立するのだが、読み書きとなると日本語とは全く違う。教師から教わっているから、日本語で言う平仮名に当たるものはなんとか理解出来る。だが、まだそれをスラスラと読むことは出来ないし、それを単語として区切り理解するのには時間がかかるのだ。
両手を上げて降伏のポーズをしながら、唇を尖らせて不服そうな顔をする。そんな私を見て、彼は半笑いで本を私の頭に乗せた。さすがに毎日の教育のおかげで姿勢が良く、頭に乗った本が倒れることはない。
「じゃあ、シヴァはよめるの?」
「この章では簡略的な魔方陣の描き方による、魔力消費量軽減について解説する」
先程の本を手に取ると、私が手こずった文章をさらっと読んでしまう。いくら年上とはいえ、そこまで離れてはいないはずなのに。彼は一体何者だろうか。そんな疑問を抱えながらも、私は大事な言葉を聞き漏らさなかった。
「まほう?」
「まだ習って無かったか?」
そうだ、すっかり忘れていた。ここは魔法も存在するファンタジー世界! 私もいつか魔法で空を飛んだり出来るようになるんだろうか。
期待を込めた私の視線を受けて、シヴァはため息をつきながら指を鳴らす。すると、その指先に小さな火が灯った。ライターよりも小さい火だが、明るさは十分で少し暗い書庫が照らされている。
「すごい!」
「これくらいなら平民でも出来る」
「わたしもやりたい!」
「やめとけ。下手すりゃ火事になるぞ」
頭に乗せていた本を手に持ち、魔法を教えてもらいたくて詰め寄るがシヴァは冷静だ。断られはしたが未練がましく見つめていると、観念したのか彼はため息をついた。
「……基礎理論だけな。実技は教師が派遣されるまではやるな」
「わかった!」
元気良く返事をすると、シヴァは本棚をしばらく眺めて一冊の本を持ってきた。比較的薄く可愛らしい挿し絵もついたもので、子供向けの本だとすぐに分かる。そのページをめくりながら、彼は教えてくれた。
「この世界の生き物は、魔力と呼ばれるエネルギーを持っている。それを別の物に変換することを魔法と呼ぶんだ。例えば」
シヴァは立ち上がると、書庫の出入口にある照明のスイッチを押した。今までついていた明かりは消え、ドアからの明かりのみが部屋を照らす。もう一度スイッチを押すと、明かりがついた。何が言いたいのか分からず首を捻る私に彼は続ける。
「これは指先からオレの魔力を吸いとって、明かりに変換してるんだ。明かりがついてる間、スイッチで簡易契約を結んだオレの魔力を使って明かりは維持される」
なんとなく使っていた明かりがそういう仕組みでついていたとは知らなかった。生活に必要なものがあまりにも現代と似通っていて、当たり前のように使っていたのだ。私の西洋についての知識が浅すぎて、ここは変だと感じることもない。
「それじゃ、シヴァのまりょくはどうなるの? なくなっちゃう?」
「こういう一般に流通してるものは、魔力消費量が極端に少なくなるよう改良されてるからな。丸一日つけっぱなしでも消費量は0.1%にも満たねぇよ」
何気に凄いことをしていたのか。この書庫に入った時、明かりをつけたのは私だ。つまり、気付かぬ内に私も魔法を使っていたということ。その事実に、なんだか感動してしまう。
「平民よりも圧倒的に魔力量が多いのが貴族の特徴だ。その魔力で生活を豊かにしたことが認められてきて、今がある」
シヴァの持ってきてくれた本を見る。ページをめくると、豪華な服を着たおじさんが杖を持って火の玉を出している。隣の粗末な服を着た男の出す火の玉は、とても小さい。
「簡単な導入だったが、分かったか?」
「うん、ありがとう」
笑顔でお礼を言うも、シヴァは押し黙っている。何だろうかと視線を合わせると、彼は静かに口を開いた。
「旦那様の言ったこと、覚えてるよな?」
何の話だろうかと、思案する。お父様が言っていたことについての記憶はあるが、今の話はどこに該当するのだろう。
頭を捻る私に、シヴァは軽くデコピンをしてくる。地味に痛い。
「オレを頼れ。頼めば出来る範囲でやってやるから」
「シヴァ……」
お父様の『大人を頼りなさい』という言葉を思い出す。私からしたら、シヴァは年上だ。頼っても良い相手なのだ。
その事実を指摘して、胸を張るシヴァはとても可愛い。それと同時に、心臓が脈打ち頬が赤くなったのを感じた。たまらずシヴァに抱きつくと、そのまま優しく頭を撫でてくれる。
「わたし、おおきくなったらシヴァのおよめさんになる……」
実際は到底無理な話だ。公爵家の令嬢と男爵家の遠縁の親類。
本家が貴族とは言え遠縁になるばなるほど身分が下がるのは当たり前で、貴族として最底辺の男爵家の遠縁はただの平民でしかない。いくら私が彼を好きで、そう望んでも叶わない現実がそこにある。でも、5歳の子供なら言っても許されるだろう。どうせ幼い頃の冗談だ。
そう分かっていて小さく呟いた言葉に、一瞬戸惑ったようにシヴァの手が止まる。しかし、すぐにその手は優しく私の髪をすいてくれたのだった。
気を取り直して本探しを行おう。
とはいえ、若干飽きてきてしまったし、魔法なんていう興味を引かれるものを見つけてしまったのだ。とりあえず一冊くらい魔法についての本を読破してみたい。そう思い、先程の子供向けの本を読んでくれと私はシヴァにせがんだ。嫌そうにすることもなく、彼は本を読んでくれる。
書庫の中央にあるソファで二人寄り添って本を読んだ。この世界の魔法について、なんとなく理解出来てきた頃。それは、最後の章に書いてあった。
「魔法に才能を持つ人物を見分ける方法として、性質というものが上げられる。まだ魔力の制御が出来ない子供は、特殊な性質を有することがある。例えば【魅了】では異性を虜にしてしまい、周囲からの執着により生活が困難になる事例が報告され」
「まって」
今、すごく大事なことを聞いた気がする。まさか探していたことが、こんな子供向けの本に書かれていたなんて。もう一度読んでもらって確認するが、間違いない。きっとこの性質というものは、リリアンナを男性嫌悪に陥れた元凶だ。
【魅了】はゲームや漫画で似たような物が出てきた記憶があるので、なんとなく理解出来る。異性を惹き付けてしまう魔性みたいな物だったはず。それならば、あの男の不自然な発情も理性のきかない様子にも説明がつく。そして、リリアンナの男性嫌悪も。常に周囲の男性を発情させまくっていて、それが無自覚ならば理由が分からず嫌にもなるだろう。だから屋敷内には女性しかいないのか、と納得する。
私が考え込んで黙っていると、シヴァは静かに本を閉じた。
「休むか? 疲れただろ」
「……うん」
言われるがままにソファに寝転ぶ。それを見ると、シヴァは上着を脱いで優しく体にかけてくれた。ソファ横の床に座り込むと、彼は私のお腹を心地好いリズムでぽんぽんと叩く。彼の横顔を眺めてからそっと目を閉じながらも、私の頭は働いていた。
彼と一緒にいたい。
結婚なんて出来なくても良いから。
彼を不幸にせずに、ずっと一緒にいられればいい。
そのために何をしたら良いんだろう。とりあえず、今後第一王子との婚約があるのは分かっている。もし婚約から結婚なんてことになったら、きっとシヴァと離れ離れになってしまう。
シヴァはモンリーズ家の執事であって、私の執事じゃない。ゲームや漫画でも、結婚の時は誰も連れずに身一つで嫁いでいた。
婚約は絶対に断ろう。第一王子と結婚しない場合、他の誰とも結婚しないでいるにはこの家を継ぐしかない。女性が家督を継げるのかは分からないけど、それが一番良い。そのままシヴァと一緒にこの家で暮らして独身生活を謳歌してやる。
逆に結婚相手にモンリーズ家に入ってもらうことも考えたけど、シヴァの前で別の男性といるなんて絶対に嫌だ。その男性だって【魅了】で私に惹かれているだけかもしれないのに。一通り脳内で今後の目標を定め、ふと思い出す。
どうしてお父様とシヴァは私の【魅了】にかかっていないのだろう。
***
次の日、シヴァは丁寧に教えてくれた。【魅了】のような性質を持ってしまうのは、魔力の保有量が多い人間に起こりやすい現象だ。
魔力とは体内に流れている目に見えないエネルギーで、これが無くなると生き物は死んでしまう。魔力の保有量が多い人間は、血液がドロドロになると血管が詰まってしまうように、魔力の流れが体のどこかで停滞してしまうらしい。この停滞した箇所によって、性質は変わる。
元々【魅了】は誰しも持っていて、好きな相手に自分を好きになって欲しくて放つフェロモンのような物なのだとか。
通常は微かに放たれるだけのそれが、そこにたくさんの魔力が停滞することで強烈な影響力を持ち生活に支障をきたしてしまう。それが性質と呼ばれる物。
この性質は子供の時だけで、ちゃんと魔力を循環させる訓練をすれば徐々に消えていくものらしい。だが、あまりにも幼い内に訓練を始めてしまうと子供の理解と魔力の操作が追い付かずに事故が発生する。それを避けるために魔力操作の訓練は、基本的には7歳以上と決まっているのだとか。平民も7歳以上から魔力操作の方法を教わるらしい。
ここまで説明されて、ようやく事態が呑み込めてきた。リリアンナは平民よりも魔力の保有量が多い貴族の中で、さらに強い魔力を持っている。道理で強かったはずだ。
ゲーム内で主人公のパラメーターを上げる際、定期的に試験が行われる。その時に学年順位が発表されるのだが、魔力に関してはリリアンナと攻略対象の一人がトップを独占していたのだ。この二人を抜いて魔法の成績をトップにするには、他の成績を諦めざるをえないくらいだった。生まれながらに強い魔力があることが分かっていたリリアンナなのだ。そりゃ勝ち目がない。
色々と納得しつつ、目下必要なのは魔力操作が出来ることだと判断する。あんな目に会い続けたら、身体がいくつあっても足りないもの。
「おとうさま」
シヴァの説明を聞いて、さっそく私はお父様にお願いすることにした。もちろん、通常より2年早く魔法の教育をさせてもらえるように。執務室の扉を開けて、隙間からひょっこりと顔を出す。声を掛けると、お父様は仕事の時の険しい顔を緩めて微笑んだ。
「リリー」
「お嬢様、どうなさいましたか? シルヴィオは?」
傍で仕事の補佐をしていたルネが、こちらまで来て扉を開けてくれた。私の後ろから一緒に出てきたシヴァを見た彼女は、キッと眉を吊り上げる。
「お嬢様が手を挟んだらどうするの! 扉を開けて差し上げなさい」
「自分でやりたいって言うんだから、しょうがないだろ。挟みそうになったらすぐに動く」
「またそんな屁理屈を……」
「外ではちゃんとするからさ、ルネさん」
あれからシヴァとルネは緊張が解けて仲良くなっていた。勉強の時や執事としての仕事の補佐をしている時以外、シヴァは彼女にも敬語を使わずフランクに話す。
彼女はそれに対して怒らないし、何だかんだ優しくフォローに回ってくれるようになった。二人の関係は、明らかに良くなっている。それが凄く嬉しい。
「どうしたんだ? リリー」
そんな二人のやり取りを尻目に、私はお父様の元へと駆け寄る。
「おとうさま、わたし」
駆け寄った私のことを抱き留め、お父様は頭を撫でてくれた。そのままの勢いで、しっかりと目を合わせて私は宣言する。
「わたし、まほうがつかえるようになりたい!」
その言葉に、お父様は目を見開いた。どこで魔法について知ったのかはそうだし、まだ扱える年齢に達していないからと娘の頼みを断らなければならないこと。だがそれ以上に、【魅了】を抑えるためには早めに魔力制御を習わせた方が良いこと。様々なことが頭を巡ったのか、彼はしばらく呆然として何も言わなかった。
後押しするためにお願い、という意味合いを込めて上目遣いで精一杯可愛い子ぶってみる。
「お嬢様、魔法なんてどこで……シヴァ?」
ルネがシヴァを睨むと、素知らぬ顔でシヴァは目を逸らす。悩みすぎて天を仰ぎ始めたお父様と、思わずため息をついたルネの視線が交わった。
「どうなさいますか?」
キラキラとした私の視線を受けているお父様に、呆れたようにルネは尋ねた。
「どうもこうもない。……教員の手配は?」
「ちょうどシルヴィオにも手配しようと調べておりました。可能です」
「事故防止の施設は?」
「離れの一室をお借りする予定で建設中です」
「そういえばそうだったな……」
大人二人の会話が進む。どうやらシヴァに魔法を習わせるつもりで二人とも準備中だったのだ。これは良い。もう一押しと、握っていたお父様の服の裾をぎゅっと握りしめる。
「シヴァもまほうをならうの?」
「ああ、うん。そうだな」
「わたしもいっしょにおしえてもらえるのね」
無邪気な娘の笑顔に顔を青ざめて黙ってしまうお父様。恐らく大人になってからこんなに緊張することは無かっただろう。冷や汗をかきながら彼は私の肩に手を置いた。
「いいかい、リリー」
「はい」
一度深呼吸して平静を装う彼に、何も知らない娘のフリをして笑みを返す。騙しているようで心苦しいけどしょうがない。今回は折れて下さい、お父様! いつもがどうだったかは知らないけど。
「……ちゃんと先生の言うことを聞くんだよ」
「はい!」
娘のおねだりに、あっさりお父様は陥落した。呆れた顔で見てくるルネの視線が痛い。こうして私は、なんとか魔力制御の訓練をする機会を手に入れた。【魅了】さえ無くなれば、男嫌いになる原因が無くなる。私が男嫌いにならなければ、シヴァを迫害する理由は無くなるのだ。
明るい未来へ一歩歩き出せたことを喜んで、私はお父様に満面の笑みを向けた。
***
「予定よりも早く訓練を開始することになりましたね」
大人二人が残された執務室で、そうルネは話し始めた。その隣でアードリアンは頭を抱えている。
「このまま【魅了】の効果が薄れれば、お嬢様を長距離移動させることも可能でしょう。となれば、断りきれなくなります」
「分かってる。将来的にはそうなることは」
アードリアンが頭を抱えていたのは、リリアンナが魔法の訓練を開始する不安だけが原因ではなかった。
「だが」
彼は視線をテーブルへと向ける。多くの書類が置かれている中、届いた手紙が入れられているケース。その一番上に、問題の手紙がある。模様のある真っ赤な封筒。縁には金の意匠が施されており、その他の手紙の中でも異彩を放っていた。
「まだ手放したくないと思うのは、親心からかな」
***
それから2年の月日が過ぎた。
私は魔法の訓練を続け、かつてシヴァがやって見せてくれたような爪先に火を灯すくらいは楽々出来るようになった。それ以外にも傷を癒したり物を浮かせたり、基礎と言われることは一通り出来る。さすが魔法に秀でたリリアンナの吸収力は凄まじく、通常では3、4年かけて習う基礎を2年で済ませてしまった。
これだけ上達すれば【魅了】の効果も薄らいでいると確信はしているが、外出時は万が一に備えて常に厳重な警備体制が布かれているので異性に会うことがほとんど無い。実際に異性に会って反応を窺ったわけじゃないから、効果のほどはよく分からない。
「う~ん…」
魔法の訓練を終え、私はシヴァと一緒に離れから戻る道を歩いていた。
「どうしたんだ? 考え込んで」
私の顔を覗き込む彼は、幼さが残りつつも凛々しい美少年に育ってきていた。
長い睫毛が瞬きをするたびに揺れて、空色の瞳が私を映しているのが見える。肩にかかるほど長く伸びた髪は濃い紫色の髪紐で結わえられ、その色は彼の髪をより美しく魅せていた。まだ執事服は子供サイズのままだが、以前のような服に着せられているような違和感はない。
シヴァと目を合わせるという状況に顔が赤くなるが、そうなる前に私は彼から視線を逸らした。
「ないしょ!」
【魅了】が解けたのか知りたい、なんて言えるわけがない。だって、性質のことはシヴァには言ってないんだから。これは私の問題。自分でなんとかしないと。
「あっそ」
そう言いながら顔を逸らした彼が私に手を伸ばす。これは、手を繋いでいいという合図だ。どうせなら仲良く手を繋いで帰りたいと我儘を言った私に、たまにならと約束してくれた。今日は繋いでも良い日らしい。
ぎゅっと手を握ると、彼もしっかり握り返してくれる。嬉しくて笑顔で見つめると、彼も微かに微笑んでくれた。毎日がこんなに幸せで良いんだろうか。そんな不安さえ感じるほど、毎日が楽しくて平和だった。
しばらく歩いていると、突然侍女の一人に呼び止められた。何やらお父様から大事な話があるらしい。こんなことは始めてだ。
「シルヴィオ様は執事長の所へ行くように仰せつかっております」
そう侍女に言われて戸惑う。やっぱり、いつもと何か違う。どんな話でも、私がシヴァと一緒にいて咎められることなどなかったのに。わざわざルネの所に行って、別々に行動しろと指示されるなんて何かがおかしい。
「なんの話なの?」
「そこまでは伺っておりませんので」
質問するも、侍女も困ったように眉を下げる。彼女は何も聞かされていないのだろう。これ以上無理に聞き出そうとしても無駄だ。
「私はお嬢様に付き添いますので」
「……分かりました」
侍女に促されてシヴァは私と繋いでいた手を放した。そばにいた温かな体温が離れて行ってしまい、急に寂しさを覚える。シヴァの顔を見ると、彼も困ったように眉をひそめていた。
「では、お嬢様。後ほど」
侍女が来てからすっかり執事としての顔になってしまった。ルネに叩きこまれた綺麗な礼をすると、彼は別の方向へ行ってしまう。
「行きましょう」
不安を覚えつつも侍女に促され、私も歩き出した。
「お呼びでしょうか?」
お父様の執務室へ入り、礼をしてからそう尋ねた。デスクに座りこちらを見ているお父様は、いつになく真剣な顔をしている。その表情に、私も緊張し背筋が引き延ばされた。冷や汗の滲む手を、ぎゅっと握りしめる。
「リリー、大事な話がある」
今日はルネがいない。シヴァが彼女に呼び出されたというのも、嘘ではないのだろう。ルネを使ってシヴァを遠ざけ、するような話。もしやと思い、嘘であって欲しいと願う。
「第一王子アレクサンド・リヒハイム殿下との婚約が決まった」
「第一王子アレクサンド・リヒハイム殿下との婚約が決まった」
やっぱり、その話か。予想が的中してしまい、私はため息をついた。
魔法訓練が進めば外出機会も増やせる。そうなれば後々出てくるであろう婚約話が進んでもしょうがない。覚悟はしていたはずだが、いざお父様の口からそう言われてしまうと眩暈がするほどの衝撃だ。
「……お断りします」
「リリー」
「……私は、シヴァと」
「無理なんだ」
最後まであがこうと言葉を紡ぐが、お父様は語気を強めて私を制止した。お父様も辛いのだろう。その手は微かに震えている。
「お前がシヴァと仲が良いのは分かっている。私が突然連れてきた子供と仲良くなってくれて優しく接してくれたことは、とても有難く感じているよ。お前が彼を好いていることも、ちゃんと分かっている」
ずっとずっと、皆の前で示してきた。私はシヴァが好き。シヴァしか見ていない。
他に異性のいない箱庭にいるからだとか、まだ子供だからだとか言われるかもしれない。それが分かっていても、私ははっきりと態度に出していた。ここまですれば、自然とお父様が諦めて断ってくれるんじゃないかと期待して。
「だがお互いに良い年だ。魔法訓練もする年になれば、何も知らない子供として扱われることはなくなる。成人はまだだが、ある程度分別のつく頃だ。だから、はっきり言おう。リリアンナ・モンリーズ」
お父様から正式にフルネームで呼ばれるのは始めてだ。それだけ真剣なんだと伝わってくる。
「貴族としての務めを果たしなさい。この婚約は、王家からの命だ」
お父様の国内での影響力は大きい。地位も名誉も持っている彼が対抗できないのは、王家のみ。その王家からの直々の命。背くことなどできはしない。
「一週間後、王城に行く。その時に殿下との顔合わせがある。しっかりと身支度をしておきなさい」
その言葉に何も返事が出来ず、私は一段と深くカーテシーをした。唇を嚙み締め、お父様を睨んでいたことは自分でもどうしようもない。これ以上余計なことを言わないように、無言で私は執務室を後にした。部屋を出る際に大きな音を立てて扉を閉める。扉に八つ当たりをしたって、無駄なはずなのに。
「私だって、出来ることなら、好きにさせてあげたかったさ」
扉の向こうから、お父様の声が聞こえた気がした。
***
執務室を出た廊下には、いつの間にかシヴァが立っていた。恐らく彼もルネから同じ話を聞いたのだろう。いつもの無表情な顔を更に硬くしており、緊張感が伝わってくる。
「お嬢様」
その声に泣きそうになる。
シヴァが好きだから、お父様には断って欲しかった。それが無理なら、はっきりお父様に嫌だと言って止めてもらうつもりだった。
婚約なんかせず、なんとかシヴァと生きる道を探したくて。でも、王家から直接出された命令ならお父様でも断れない。その事実が悔しくてたまらない。
「シヴァ、私っ……」
言葉に詰まる私に、何が言いたいのか彼も察したのだろう。こちらに近寄っていた足が止まり、胸に手を当てて丁寧な礼がされる。それは、執事が公爵令嬢にする仕草だ。
「ご婚約、おめでとうございます」
その言葉ではっきりと、一線を引かれたことが私にも分かった。
シヴァも私に第一王子と婚約をしろと言う。彼だけは一緒に反対してくれるって、どこかでそう思っていた。だって、彼は優しかったから。
全力で大好きだと伝えて態度に表しても、拒否なんてしないで温かく受け入れてくれた。その表情はいつもよりも圧倒的に柔らかくて、手を繋ぎたいとかいう私の我儘も許してくれていたから。だから、彼も私を好きでいてくれてるなんて、そう思っていた。思い返せば、彼からはっきりと好きだって言われたこともないのに。
「……シヴァは、私のこと好き?」
始めて尋ねた。もっと早く訊いておくべきだったと、今更思う私はとんでもない阿呆だ。
私の言葉に、礼をしていた顔を上げて彼は答えた。
「敬愛しております」
あくまで執事としての態度を崩さない。いつもみたいに、軽口で返事なんてしてくれない。これが大人に近づいたということか、そう理解する。それでも、彼のそんな言葉を聞きたくなんか無かった。
「シヴァのバカ!」
そう吐き捨てると、私は自室へと走って行った。
***
「さあさ、お嬢様。もう日付が無いんですからね!」
落ち込んで部屋に引きこもっている私に、バルバラは無遠慮に話しかけてきた。底抜けに明るく振舞う様子は、拗ねている私の暗い気持ちを吹き飛ばすようだ。
テキパキと侍女を使い、どんどんと王城へ行く準備を進めて行った。当日着ていくドレスが決まり、靴が決まり、首飾りやイヤリング、髪飾りが決まる。あっと言う間に集められ決められたそれらを試着し寸法を合わせる。有名な髪結いが呼ばれ当日のヘアスタイルを決めていく。
その間中、私は一言も口を利かなかった。子供っぽいと笑われてもしょうがない。それでも少しでも反抗したかったのだ。
「いつかお嫁に行くときは、このバルバラにも晴れ姿を見せて下さいね」
そう言って乳母は明るく笑う。彼女はリリアンナの亡き母と親友同士だった。バルバラの母がリリアンナの母の乳母。
乳兄弟とも呼ばれる関係で、彼女とリリアンナの母は仲良く育っていった。産後すぐに亡くなってしまった母から後を任されたバルバラは、リリアンナを本当の娘のように思っている。リリアンナの面倒を見るためにと、わざわざ仕事を優先させてくれることを条件に旦那を選んだほどだ。
リリアンナの記憶から見ても、一途な彼女には報いてあげたいと思っている。でも、それと第一王子との結婚は必ずしもイコールにはならないだろう。私の気持ちと、貴族としての務めと王家の命の重さ、その全てが分かっていての対応は随分と大人びていた。婚約したくないと我儘を言い、断られて拗ねている私とは大違いだ。
「今後どうなるかは分からないんです。せめてお嬢様は綺麗な服を着て笑っていてください」
そう笑顔で言うバルバラ。約一週間、ずっと笑顔でいてくれた彼女に励まされた。
そうだ、お父様がダメなら自分で断ればいいのだ。はっきりと第一王子の目を見て嫌だと言おう。ゲームの設定だと、彼は思慮深く優しい性格をしていた。嫌がることを無理強いするような人じゃなかったはずだ。
きっと大丈夫。そう決めて私は王城に行く日を迎えた。
当日の私は、誰が見ても見惚れるほどに美しく着飾られていた。
光の加減で赤色にも見えるピンク色のドレス。ふんだんにレースやリボンで飾られたそれには、瞳の色と同じ薔薇の飾りまでついている。ドレスとお揃いのリボンで淡い紫色の髪は編み込まれ、同じく薔薇の飾りが髪を彩っていた。拗ねていたため下がっていた口角は化粧で適度に口角が上がって見えるようになっている。その加減は正しくプロとしか言いようがない。
「綺麗だよ、リリー」
鏡の前でくるりと回って自分の姿を確認していると、私と同じ様に着飾ったお父様がやって来てそう言ってくれた。
「ありがとうございます」
「まだ拗ねてるのかい?」
声色から察したのか、困ったように尋ねてくる。
「もちろんです。でも、覚悟は決めました」
はっきり断るための、ね。
「リリーも大人になったなぁ」
そう言って笑うお父様に手を引かれて馬車に乗る。屋敷を振り返ると、見送りの使用人達の中にシヴァの姿があった。あれから一週間、ろくに顔を合わせていない。
リリアンナとして生きるようになって、そんなこと始めてだった。彼に何か言いたくて、でも言葉が見つからずに口を閉ざす。それは彼も同じようで、私と全く同じ反応をしていた。
結局お互いに何も言えず、彼はあの時のような綺麗な礼をする。そのまま馬車の扉は閉じられてしまった。彼がどんな表情をしているかすら、見ることも出来ず。
***
辿り着いた王城は、あまりに広すぎてどこをどう通ったのか全く分からなかった。白を基調とした城壁は太陽光に当たって光り輝き、深い青色の屋根が空に向かって伸びている。合間にある中庭は陽光で明るく輝き、植えられた花々が風に揺れていた。ずっと歩いている廊下は大理石の床に紺を基調とした絨毯が布かれ、埃一つない。時折すれ違いこちらに礼をしてくるメイドさん達がしっかり手入れをしているのだろう。他にも貴族やお役人、騎士の人達とすれ違うたび、挨拶をするお父様に合わせて私もお辞儀を披露した。
もはや何人に会ったのか、どんな人達に会ったのかすら分からない。ゲーム画面で見たような光景に胸が高まるが、緊張感の方が圧倒的に上で感動する暇などない。そうこうしている内に、ようやく視界が開ける。
「殿下がお待ちです」
横から突然現れた執事が丁寧に礼をし、お父様を案内する。慌てて私も続く。どこから現れたのか、全く姿も気配もなく分からなかった。これが王家お抱え執事の実力かと感心してしまう。
ついていった先は温室。一般家庭の大き目の一軒家くらい大きく、ガラス越しに中の花がよく見える。その扉の前で立ち止まったお父様は、執事と何やら話していた。こんなところで何の立ち話かと聞き耳を立てようとするが、身長差もあり小声で話しているためよく聞こえない。
「リリー」
話し終えたのかお父様は私と目が合うようにかがんでくれる。
「申し訳ないが、急な仕事で陛下と一緒に出掛ける用事が出来てしまってね。殿下とは二人で会ってくれないか?」
元々は王様、王妃様、第一王子の三人と顔合わせをする予定だった。きっと政務のことで何かあったに違いない。
「分かりました」
「殿下に失礼のないようにな」
優しく私の頭を撫でたお父様は一人でどこかへ行ってしまう。その後ろ姿に手を振っていると、執事に促されて温室の中へ入った。
温室は外よりも少し暖かいが、室温が丁度良く保たれているのか暑すぎない温度になっていた。魔力操作の訓練のおかげか、周囲の魔力の流れで温度管理に魔法が使われているのが分かる。努力の成果が出ているようで、心なしか浮かれてしまった。
少し歩くと薔薇で出来たアーチが続く。アーチを三つほどくぐった先の開いた空間に、白磁のテーブルや椅子が置かれた休憩スペースがあった。そこには一人の少年が座っている。
「殿下、リリアンナ・モンリーズ公爵令嬢をお連れしました」
「ありがとう」
執事が立ち止まり礼をすると、彼は柔和な笑みを浮かべて礼を口にした。穏やかそうな印象の瞳は、この国の王族の証でもある黄金色。髪は大人っぽく見えるよう上げており、シミや皺とは無縁そうな白い肌が露出していた。髪は海のように深く青く、光のせいか毛先に行くほど薄くなっているように見える。白を基調とした清潔感のある服がよく似合う。着ている服はリリアンナの目からも上等な品であることがうかがえ、アクセントで付いている小さな飾りすら宝石だ。
背筋は真っすぐ伸び、カップを戻す仕草は指先まで洗練されている。リリアンナよりも2つ年上なだけなのに、なぜこんなにも様になっているのか本当に不思議だ。
「リリアンナ・モンリーズです。今日はお呼びいただきありがとうございます」
執事の横で立ち止まり、何度も練習したカーテシーを披露する。幸いドレスに躓くことはなかった。今日の目的を思い出すと緊張するが、幸い大人はいないので楽な方だ。
「顔を上げて」
命じられるままに顔を上げ、彼と視線を合わせる。柔和な微笑は崩さないまま、その口元がゆっくりと弧を描いた。長い睫毛が揺れ、その表情は満面の笑みへと移る。とろけそうなほど優しい笑み。それが攻略対象その1、第一王子アレクサンド・リヒハイムの特徴だ。
ゲームで見た姿よりは明らかに幼いが、その外見と笑顔には確かな面影がある。
「どうぞ」
彼の正面の席を指示され、執事が椅子を引く。その引いてくれた椅子に座り、私は彼と目線を合わせた。やることが終わった執事は一度礼をすると、二人の邪魔にならぬよう温室の出入り口まで戻っていく。二人きりの空間になったことを把握して、私はすぐに行動を移した。
何度も脳内シミュレーションしたのだ。大丈夫、やれる。
「アレクサンド・リヒハイム殿下」
椅子を引き素早く立ち上がる。頭をぶつけないように一歩横にずれた。一度しっかり彼と目を合わせ、こちらを見ていることを確認する。
「お願いです」
土下座したいところだが、ドレスが汚れてしまうため不可能だ。その代わり、体の前で手を合わせ今までしたことがないくらい深く頭を下げた。
「どうかこの婚約、お断り頂けないでしょうか!」
私の言葉に、皆が目を丸くした。部屋に沈黙が走るが、気にせず私は言葉を畳みかけた。
「かぞくだから、しんぱいでこんなにおこってるんでしょう?」
本心が違ったとしても、そうしておけば誰も傷つかないはずだ。失敗を責め続けられてしまう少年も、自責の念から子供に厳しくしすぎてしまう女性もいなくなる。
お願いだから、肯定して。
祈るように、シヴァと繋いでいた手を強く握る。どんな反応が返ってくるか分からず不安がる私の予想とはかけ離れた姿を、彼女は見せた。
「え?」
そう呟くと、彼女は顔を真っ赤にする。堅物な彼女の普段見ることの無い姿に、皆唖然としてしまう。
「そ、そうですね。私の身内? ですし? こういうことは、はっきり言っておかないと我が家の体面が……」
色々言っているけど、その発言は要するに【既にシルヴィオは我が家の子】と完全に思っているのでは? 彼女、もしかしてツンデレ?
思わぬ反応に驚きつつ、笑ってしまう。つられて周囲の皆も笑っていた。
「そんな笑わなくたって……家に年下なんていなくて、どう接すれば良いか……私だって色々悩んで」
話せば話すほど、墓穴を掘っていますよルネさん。
「いや、それなら良かった。半ば無理に君の親類にしたものだから、嫌がってないか心配だったんだ」
「はぁ……」
お父様は笑いながら彼女の肩を叩く。笑いすぎて出た涙を拭うと、お父様は次にシヴァに向き直った。
「良かったな、シヴァ。 彼女はもう君を身内だと認めているぞ」
「それは、ありがとうございます……叔母さん?」
「そんな年じゃないわ!」
「じゃあどう呼べば……」
シヴァに『叔母』と呼ばれて焦る彼女を見て、更に周囲が笑い転げる。
良かった。これは上手くいった。もしかして、シヴァが不幸になるシナリオを1つ潰せたんじゃないだろうか。
楽しげにルネと話すシヴァを見て、私は胸を撫で下ろした。
***
その後、大事な話があるからと私は部屋から追い出されてしまった。残っているのは、お父様とシヴァとルネ。私の部屋なのに、私が追い出されることになるなんてどういうことだ。そう抗議したいが、あの雰囲気を見るに大事な話なのだろう。邪魔するわけにはいかない。
乳母に連れられて軽く朝食を済ませた私は、空いた時間を過ごすために書庫に行った。別にただの暇潰しではない。大切なことなのだ。
今回の事件は、あまりに不自然だった。平民の、それも特に貧相な生活をしている男がわざわざ身なりの良い子供に手を出すだろうか。その後でどんな重い処罰が待っているか分からないのに。
男の様子は明らかにおかしかったし、まともな会話も出来そうに見えなかった。それに、私を連れて行こうとした理由は金銭的な誘拐目的とは思えない。どろりとまとわりつくような視線と熱い吐息。あの視線と空気には、少し覚えがある。
男は、間違いなく発情していた。
いくら美少女とはいえ、たった5歳の女の子にだ。幼女趣味だと仮定しても、おかしなことに変わりはない。それならば、もっと後腐れの無い無害そうな子供を狙うだろう。
それに加えて、リリアンナ・モンリーズのキャラクター設定。幼少期から男性に襲われて男嫌いになったという話。男を狂わせる原因がリリアンナにあったならば、納得出来る。
「みつけなくちゃ」
何度もあんな目に合ったら、誰だって嫌になる。でも、私はそうはなりたくない。ゲーム内のリリアンナと同じ道筋を辿りたくは無いし、それによってシヴァを不幸な目に合わせるわけにはいかないのだ。
幸いなことに、簡単な読み書きは既に習っていた。子供ならば読めても理解出来ないだろうが私は元高校生。5歳の子供よりは賢いつもりだ。本を漁れば、きっと何かヒントになるような記述がどこかにあるはず。
書庫に入ると、山のように積まれた紙の束と壁を埋め尽くす本が目に入る。貴族の書庫ならたくさん本があることは予想出来た。だが、まさかここまで多いとは。
本棚は私の背も大人の身長も超えて高く伸びている。上の本を取るための梯子があちこちにかけられていた。こんな中から見つけられるだろうか。不安に思いつつ、背表紙を眺めていく。
【モンリーズ家家系図No.1】
【経営のための基礎理論】
【経理業務のすすめ】
ダメだ。ここは恐らくモンリーズ家についてや、貴族としての努め、領地経営についての本しかない。隣の棚を見てみよう。
【熱帯動物の生態③】
【地理とそれに伴う気候の全て】
【リヒハイム王国植物図鑑その5】
ここは生態系についてや動植物の図鑑。違う。慣れない文字ばかり見て、だんだん頭が痛くなってきた。
一度休もうと、書庫の中心にあるソファに寝転ぶ。こんな調子で、目的の本は見つかるのだろうか。先行きが不安でため息を漏らした。
「今回のことは、本当に驚いただろう。まだ子供だからと、きちんと説明しなかった私が悪かった」
リリアンナの私室。そこで、当主であるアードリアンは静かに話し出した。ベッドに座ったままのシルヴィオは、静かに話を聞いている。
「まず尋ねよう。シヴァ、君は」
アードリアンのいつになく真剣な表情に、シルヴィオはどんな話をされるのかと緊張でベッドシーツをきつく握りしめた。少しの間を置いて、アードリアンはゆっくりと言葉を発する。
「【魅了】という性質を知っているかい?」
***
あれから毎日のように私は書庫に足を運んだ。慣れない文字は読むのに時間はかかるし頭も使う。嫌になるけれど、頼みの綱はここしかないのだ。お父様や乳母等の大人達は、あの日の事件について何も語らなくなっている。とても今から訊きに行ける雰囲気ではない。
「無い頭捻って毎日懲りないな」
自由時間を共に過ごすシヴァは、私に合わせて書庫に来てくれている。何を探してるのかは、訊かれても教えていない。だって、心配はさせたくないし、たった5歳の女の子が何故こんなことに頭が回るのかなんて言われても、答えようがないんだもの。
「ちゃんとかんがえてるもん!」
「どうだか」
反論するが、彼はからかうような態度で読んでいた本を一冊差し出してきた。訳も分からず、つい受け取ってしまう。
「なに?」
「読めるか?」
失礼な!
馬鹿にした態度に反抗するため、本を開く。細かく並んだ文字に一瞬目眩がするが、負けるものかと踏み留まる。
「この、しょうで、は……かんやく? かんりゃく、てきな、まろう……」
「ああ、うん。無理言って悪かった」
一生懸命読んだのに、呆れられてしまった。一体何が言いたいんだろう。
「何を探してるかは知らないが、この一文読むのにこんだけ時間かけてたら一生終わらねぇぞ」
正論を言われてぐうの音も出ない。まさしく完敗だ。
会話は不思議と成立するのだが、読み書きとなると日本語とは全く違う。教師から教わっているから、日本語で言う平仮名に当たるものはなんとか理解出来る。だが、まだそれをスラスラと読むことは出来ないし、それを単語として区切り理解するのには時間がかかるのだ。
両手を上げて降伏のポーズをしながら、唇を尖らせて不服そうな顔をする。そんな私を見て、彼は半笑いで本を私の頭に乗せた。さすがに毎日の教育のおかげで姿勢が良く、頭に乗った本が倒れることはない。
「じゃあ、シヴァはよめるの?」
「この章では簡略的な魔方陣の描き方による、魔力消費量軽減について解説する」
先程の本を手に取ると、私が手こずった文章をさらっと読んでしまう。いくら年上とはいえ、そこまで離れてはいないはずなのに。彼は一体何者だろうか。そんな疑問を抱えながらも、私は大事な言葉を聞き漏らさなかった。
「まほう?」
「まだ習って無かったか?」
そうだ、すっかり忘れていた。ここは魔法も存在するファンタジー世界! 私もいつか魔法で空を飛んだり出来るようになるんだろうか。
期待を込めた私の視線を受けて、シヴァはため息をつきながら指を鳴らす。すると、その指先に小さな火が灯った。ライターよりも小さい火だが、明るさは十分で少し暗い書庫が照らされている。
「すごい!」
「これくらいなら平民でも出来る」
「わたしもやりたい!」
「やめとけ。下手すりゃ火事になるぞ」
頭に乗せていた本を手に持ち、魔法を教えてもらいたくて詰め寄るがシヴァは冷静だ。断られはしたが未練がましく見つめていると、観念したのか彼はため息をついた。
「……基礎理論だけな。実技は教師が派遣されるまではやるな」
「わかった!」
元気良く返事をすると、シヴァは本棚をしばらく眺めて一冊の本を持ってきた。比較的薄く可愛らしい挿し絵もついたもので、子供向けの本だとすぐに分かる。そのページをめくりながら、彼は教えてくれた。
「この世界の生き物は、魔力と呼ばれるエネルギーを持っている。それを別の物に変換することを魔法と呼ぶんだ。例えば」
シヴァは立ち上がると、書庫の出入口にある照明のスイッチを押した。今までついていた明かりは消え、ドアからの明かりのみが部屋を照らす。もう一度スイッチを押すと、明かりがついた。何が言いたいのか分からず首を捻る私に彼は続ける。
「これは指先からオレの魔力を吸いとって、明かりに変換してるんだ。明かりがついてる間、スイッチで簡易契約を結んだオレの魔力を使って明かりは維持される」
なんとなく使っていた明かりがそういう仕組みでついていたとは知らなかった。生活に必要なものがあまりにも現代と似通っていて、当たり前のように使っていたのだ。私の西洋についての知識が浅すぎて、ここは変だと感じることもない。
「それじゃ、シヴァのまりょくはどうなるの? なくなっちゃう?」
「こういう一般に流通してるものは、魔力消費量が極端に少なくなるよう改良されてるからな。丸一日つけっぱなしでも消費量は0.1%にも満たねぇよ」
何気に凄いことをしていたのか。この書庫に入った時、明かりをつけたのは私だ。つまり、気付かぬ内に私も魔法を使っていたということ。その事実に、なんだか感動してしまう。
「平民よりも圧倒的に魔力量が多いのが貴族の特徴だ。その魔力で生活を豊かにしたことが認められてきて、今がある」
シヴァの持ってきてくれた本を見る。ページをめくると、豪華な服を着たおじさんが杖を持って火の玉を出している。隣の粗末な服を着た男の出す火の玉は、とても小さい。
「簡単な導入だったが、分かったか?」
「うん、ありがとう」
笑顔でお礼を言うも、シヴァは押し黙っている。何だろうかと視線を合わせると、彼は静かに口を開いた。
「旦那様の言ったこと、覚えてるよな?」
何の話だろうかと、思案する。お父様が言っていたことについての記憶はあるが、今の話はどこに該当するのだろう。
頭を捻る私に、シヴァは軽くデコピンをしてくる。地味に痛い。
「オレを頼れ。頼めば出来る範囲でやってやるから」
「シヴァ……」
お父様の『大人を頼りなさい』という言葉を思い出す。私からしたら、シヴァは年上だ。頼っても良い相手なのだ。
その事実を指摘して、胸を張るシヴァはとても可愛い。それと同時に、心臓が脈打ち頬が赤くなったのを感じた。たまらずシヴァに抱きつくと、そのまま優しく頭を撫でてくれる。
「わたし、おおきくなったらシヴァのおよめさんになる……」
実際は到底無理な話だ。公爵家の令嬢と男爵家の遠縁の親類。
本家が貴族とは言え遠縁になるばなるほど身分が下がるのは当たり前で、貴族として最底辺の男爵家の遠縁はただの平民でしかない。いくら私が彼を好きで、そう望んでも叶わない現実がそこにある。でも、5歳の子供なら言っても許されるだろう。どうせ幼い頃の冗談だ。
そう分かっていて小さく呟いた言葉に、一瞬戸惑ったようにシヴァの手が止まる。しかし、すぐにその手は優しく私の髪をすいてくれたのだった。
気を取り直して本探しを行おう。
とはいえ、若干飽きてきてしまったし、魔法なんていう興味を引かれるものを見つけてしまったのだ。とりあえず一冊くらい魔法についての本を読破してみたい。そう思い、先程の子供向けの本を読んでくれと私はシヴァにせがんだ。嫌そうにすることもなく、彼は本を読んでくれる。
書庫の中央にあるソファで二人寄り添って本を読んだ。この世界の魔法について、なんとなく理解出来てきた頃。それは、最後の章に書いてあった。
「魔法に才能を持つ人物を見分ける方法として、性質というものが上げられる。まだ魔力の制御が出来ない子供は、特殊な性質を有することがある。例えば【魅了】では異性を虜にしてしまい、周囲からの執着により生活が困難になる事例が報告され」
「まって」
今、すごく大事なことを聞いた気がする。まさか探していたことが、こんな子供向けの本に書かれていたなんて。もう一度読んでもらって確認するが、間違いない。きっとこの性質というものは、リリアンナを男性嫌悪に陥れた元凶だ。
【魅了】はゲームや漫画で似たような物が出てきた記憶があるので、なんとなく理解出来る。異性を惹き付けてしまう魔性みたいな物だったはず。それならば、あの男の不自然な発情も理性のきかない様子にも説明がつく。そして、リリアンナの男性嫌悪も。常に周囲の男性を発情させまくっていて、それが無自覚ならば理由が分からず嫌にもなるだろう。だから屋敷内には女性しかいないのか、と納得する。
私が考え込んで黙っていると、シヴァは静かに本を閉じた。
「休むか? 疲れただろ」
「……うん」
言われるがままにソファに寝転ぶ。それを見ると、シヴァは上着を脱いで優しく体にかけてくれた。ソファ横の床に座り込むと、彼は私のお腹を心地好いリズムでぽんぽんと叩く。彼の横顔を眺めてからそっと目を閉じながらも、私の頭は働いていた。
彼と一緒にいたい。
結婚なんて出来なくても良いから。
彼を不幸にせずに、ずっと一緒にいられればいい。
そのために何をしたら良いんだろう。とりあえず、今後第一王子との婚約があるのは分かっている。もし婚約から結婚なんてことになったら、きっとシヴァと離れ離れになってしまう。
シヴァはモンリーズ家の執事であって、私の執事じゃない。ゲームや漫画でも、結婚の時は誰も連れずに身一つで嫁いでいた。
婚約は絶対に断ろう。第一王子と結婚しない場合、他の誰とも結婚しないでいるにはこの家を継ぐしかない。女性が家督を継げるのかは分からないけど、それが一番良い。そのままシヴァと一緒にこの家で暮らして独身生活を謳歌してやる。
逆に結婚相手にモンリーズ家に入ってもらうことも考えたけど、シヴァの前で別の男性といるなんて絶対に嫌だ。その男性だって【魅了】で私に惹かれているだけかもしれないのに。一通り脳内で今後の目標を定め、ふと思い出す。
どうしてお父様とシヴァは私の【魅了】にかかっていないのだろう。
***
次の日、シヴァは丁寧に教えてくれた。【魅了】のような性質を持ってしまうのは、魔力の保有量が多い人間に起こりやすい現象だ。
魔力とは体内に流れている目に見えないエネルギーで、これが無くなると生き物は死んでしまう。魔力の保有量が多い人間は、血液がドロドロになると血管が詰まってしまうように、魔力の流れが体のどこかで停滞してしまうらしい。この停滞した箇所によって、性質は変わる。
元々【魅了】は誰しも持っていて、好きな相手に自分を好きになって欲しくて放つフェロモンのような物なのだとか。
通常は微かに放たれるだけのそれが、そこにたくさんの魔力が停滞することで強烈な影響力を持ち生活に支障をきたしてしまう。それが性質と呼ばれる物。
この性質は子供の時だけで、ちゃんと魔力を循環させる訓練をすれば徐々に消えていくものらしい。だが、あまりにも幼い内に訓練を始めてしまうと子供の理解と魔力の操作が追い付かずに事故が発生する。それを避けるために魔力操作の訓練は、基本的には7歳以上と決まっているのだとか。平民も7歳以上から魔力操作の方法を教わるらしい。
ここまで説明されて、ようやく事態が呑み込めてきた。リリアンナは平民よりも魔力の保有量が多い貴族の中で、さらに強い魔力を持っている。道理で強かったはずだ。
ゲーム内で主人公のパラメーターを上げる際、定期的に試験が行われる。その時に学年順位が発表されるのだが、魔力に関してはリリアンナと攻略対象の一人がトップを独占していたのだ。この二人を抜いて魔法の成績をトップにするには、他の成績を諦めざるをえないくらいだった。生まれながらに強い魔力があることが分かっていたリリアンナなのだ。そりゃ勝ち目がない。
色々と納得しつつ、目下必要なのは魔力操作が出来ることだと判断する。あんな目に会い続けたら、身体がいくつあっても足りないもの。
「おとうさま」
シヴァの説明を聞いて、さっそく私はお父様にお願いすることにした。もちろん、通常より2年早く魔法の教育をさせてもらえるように。執務室の扉を開けて、隙間からひょっこりと顔を出す。声を掛けると、お父様は仕事の時の険しい顔を緩めて微笑んだ。
「リリー」
「お嬢様、どうなさいましたか? シルヴィオは?」
傍で仕事の補佐をしていたルネが、こちらまで来て扉を開けてくれた。私の後ろから一緒に出てきたシヴァを見た彼女は、キッと眉を吊り上げる。
「お嬢様が手を挟んだらどうするの! 扉を開けて差し上げなさい」
「自分でやりたいって言うんだから、しょうがないだろ。挟みそうになったらすぐに動く」
「またそんな屁理屈を……」
「外ではちゃんとするからさ、ルネさん」
あれからシヴァとルネは緊張が解けて仲良くなっていた。勉強の時や執事としての仕事の補佐をしている時以外、シヴァは彼女にも敬語を使わずフランクに話す。
彼女はそれに対して怒らないし、何だかんだ優しくフォローに回ってくれるようになった。二人の関係は、明らかに良くなっている。それが凄く嬉しい。
「どうしたんだ? リリー」
そんな二人のやり取りを尻目に、私はお父様の元へと駆け寄る。
「おとうさま、わたし」
駆け寄った私のことを抱き留め、お父様は頭を撫でてくれた。そのままの勢いで、しっかりと目を合わせて私は宣言する。
「わたし、まほうがつかえるようになりたい!」
その言葉に、お父様は目を見開いた。どこで魔法について知ったのかはそうだし、まだ扱える年齢に達していないからと娘の頼みを断らなければならないこと。だがそれ以上に、【魅了】を抑えるためには早めに魔力制御を習わせた方が良いこと。様々なことが頭を巡ったのか、彼はしばらく呆然として何も言わなかった。
後押しするためにお願い、という意味合いを込めて上目遣いで精一杯可愛い子ぶってみる。
「お嬢様、魔法なんてどこで……シヴァ?」
ルネがシヴァを睨むと、素知らぬ顔でシヴァは目を逸らす。悩みすぎて天を仰ぎ始めたお父様と、思わずため息をついたルネの視線が交わった。
「どうなさいますか?」
キラキラとした私の視線を受けているお父様に、呆れたようにルネは尋ねた。
「どうもこうもない。……教員の手配は?」
「ちょうどシルヴィオにも手配しようと調べておりました。可能です」
「事故防止の施設は?」
「離れの一室をお借りする予定で建設中です」
「そういえばそうだったな……」
大人二人の会話が進む。どうやらシヴァに魔法を習わせるつもりで二人とも準備中だったのだ。これは良い。もう一押しと、握っていたお父様の服の裾をぎゅっと握りしめる。
「シヴァもまほうをならうの?」
「ああ、うん。そうだな」
「わたしもいっしょにおしえてもらえるのね」
無邪気な娘の笑顔に顔を青ざめて黙ってしまうお父様。恐らく大人になってからこんなに緊張することは無かっただろう。冷や汗をかきながら彼は私の肩に手を置いた。
「いいかい、リリー」
「はい」
一度深呼吸して平静を装う彼に、何も知らない娘のフリをして笑みを返す。騙しているようで心苦しいけどしょうがない。今回は折れて下さい、お父様! いつもがどうだったかは知らないけど。
「……ちゃんと先生の言うことを聞くんだよ」
「はい!」
娘のおねだりに、あっさりお父様は陥落した。呆れた顔で見てくるルネの視線が痛い。こうして私は、なんとか魔力制御の訓練をする機会を手に入れた。【魅了】さえ無くなれば、男嫌いになる原因が無くなる。私が男嫌いにならなければ、シヴァを迫害する理由は無くなるのだ。
明るい未来へ一歩歩き出せたことを喜んで、私はお父様に満面の笑みを向けた。
***
「予定よりも早く訓練を開始することになりましたね」
大人二人が残された執務室で、そうルネは話し始めた。その隣でアードリアンは頭を抱えている。
「このまま【魅了】の効果が薄れれば、お嬢様を長距離移動させることも可能でしょう。となれば、断りきれなくなります」
「分かってる。将来的にはそうなることは」
アードリアンが頭を抱えていたのは、リリアンナが魔法の訓練を開始する不安だけが原因ではなかった。
「だが」
彼は視線をテーブルへと向ける。多くの書類が置かれている中、届いた手紙が入れられているケース。その一番上に、問題の手紙がある。模様のある真っ赤な封筒。縁には金の意匠が施されており、その他の手紙の中でも異彩を放っていた。
「まだ手放したくないと思うのは、親心からかな」
***
それから2年の月日が過ぎた。
私は魔法の訓練を続け、かつてシヴァがやって見せてくれたような爪先に火を灯すくらいは楽々出来るようになった。それ以外にも傷を癒したり物を浮かせたり、基礎と言われることは一通り出来る。さすが魔法に秀でたリリアンナの吸収力は凄まじく、通常では3、4年かけて習う基礎を2年で済ませてしまった。
これだけ上達すれば【魅了】の効果も薄らいでいると確信はしているが、外出時は万が一に備えて常に厳重な警備体制が布かれているので異性に会うことがほとんど無い。実際に異性に会って反応を窺ったわけじゃないから、効果のほどはよく分からない。
「う~ん…」
魔法の訓練を終え、私はシヴァと一緒に離れから戻る道を歩いていた。
「どうしたんだ? 考え込んで」
私の顔を覗き込む彼は、幼さが残りつつも凛々しい美少年に育ってきていた。
長い睫毛が瞬きをするたびに揺れて、空色の瞳が私を映しているのが見える。肩にかかるほど長く伸びた髪は濃い紫色の髪紐で結わえられ、その色は彼の髪をより美しく魅せていた。まだ執事服は子供サイズのままだが、以前のような服に着せられているような違和感はない。
シヴァと目を合わせるという状況に顔が赤くなるが、そうなる前に私は彼から視線を逸らした。
「ないしょ!」
【魅了】が解けたのか知りたい、なんて言えるわけがない。だって、性質のことはシヴァには言ってないんだから。これは私の問題。自分でなんとかしないと。
「あっそ」
そう言いながら顔を逸らした彼が私に手を伸ばす。これは、手を繋いでいいという合図だ。どうせなら仲良く手を繋いで帰りたいと我儘を言った私に、たまにならと約束してくれた。今日は繋いでも良い日らしい。
ぎゅっと手を握ると、彼もしっかり握り返してくれる。嬉しくて笑顔で見つめると、彼も微かに微笑んでくれた。毎日がこんなに幸せで良いんだろうか。そんな不安さえ感じるほど、毎日が楽しくて平和だった。
しばらく歩いていると、突然侍女の一人に呼び止められた。何やらお父様から大事な話があるらしい。こんなことは始めてだ。
「シルヴィオ様は執事長の所へ行くように仰せつかっております」
そう侍女に言われて戸惑う。やっぱり、いつもと何か違う。どんな話でも、私がシヴァと一緒にいて咎められることなどなかったのに。わざわざルネの所に行って、別々に行動しろと指示されるなんて何かがおかしい。
「なんの話なの?」
「そこまでは伺っておりませんので」
質問するも、侍女も困ったように眉を下げる。彼女は何も聞かされていないのだろう。これ以上無理に聞き出そうとしても無駄だ。
「私はお嬢様に付き添いますので」
「……分かりました」
侍女に促されてシヴァは私と繋いでいた手を放した。そばにいた温かな体温が離れて行ってしまい、急に寂しさを覚える。シヴァの顔を見ると、彼も困ったように眉をひそめていた。
「では、お嬢様。後ほど」
侍女が来てからすっかり執事としての顔になってしまった。ルネに叩きこまれた綺麗な礼をすると、彼は別の方向へ行ってしまう。
「行きましょう」
不安を覚えつつも侍女に促され、私も歩き出した。
「お呼びでしょうか?」
お父様の執務室へ入り、礼をしてからそう尋ねた。デスクに座りこちらを見ているお父様は、いつになく真剣な顔をしている。その表情に、私も緊張し背筋が引き延ばされた。冷や汗の滲む手を、ぎゅっと握りしめる。
「リリー、大事な話がある」
今日はルネがいない。シヴァが彼女に呼び出されたというのも、嘘ではないのだろう。ルネを使ってシヴァを遠ざけ、するような話。もしやと思い、嘘であって欲しいと願う。
「第一王子アレクサンド・リヒハイム殿下との婚約が決まった」
「第一王子アレクサンド・リヒハイム殿下との婚約が決まった」
やっぱり、その話か。予想が的中してしまい、私はため息をついた。
魔法訓練が進めば外出機会も増やせる。そうなれば後々出てくるであろう婚約話が進んでもしょうがない。覚悟はしていたはずだが、いざお父様の口からそう言われてしまうと眩暈がするほどの衝撃だ。
「……お断りします」
「リリー」
「……私は、シヴァと」
「無理なんだ」
最後まであがこうと言葉を紡ぐが、お父様は語気を強めて私を制止した。お父様も辛いのだろう。その手は微かに震えている。
「お前がシヴァと仲が良いのは分かっている。私が突然連れてきた子供と仲良くなってくれて優しく接してくれたことは、とても有難く感じているよ。お前が彼を好いていることも、ちゃんと分かっている」
ずっとずっと、皆の前で示してきた。私はシヴァが好き。シヴァしか見ていない。
他に異性のいない箱庭にいるからだとか、まだ子供だからだとか言われるかもしれない。それが分かっていても、私ははっきりと態度に出していた。ここまですれば、自然とお父様が諦めて断ってくれるんじゃないかと期待して。
「だがお互いに良い年だ。魔法訓練もする年になれば、何も知らない子供として扱われることはなくなる。成人はまだだが、ある程度分別のつく頃だ。だから、はっきり言おう。リリアンナ・モンリーズ」
お父様から正式にフルネームで呼ばれるのは始めてだ。それだけ真剣なんだと伝わってくる。
「貴族としての務めを果たしなさい。この婚約は、王家からの命だ」
お父様の国内での影響力は大きい。地位も名誉も持っている彼が対抗できないのは、王家のみ。その王家からの直々の命。背くことなどできはしない。
「一週間後、王城に行く。その時に殿下との顔合わせがある。しっかりと身支度をしておきなさい」
その言葉に何も返事が出来ず、私は一段と深くカーテシーをした。唇を嚙み締め、お父様を睨んでいたことは自分でもどうしようもない。これ以上余計なことを言わないように、無言で私は執務室を後にした。部屋を出る際に大きな音を立てて扉を閉める。扉に八つ当たりをしたって、無駄なはずなのに。
「私だって、出来ることなら、好きにさせてあげたかったさ」
扉の向こうから、お父様の声が聞こえた気がした。
***
執務室を出た廊下には、いつの間にかシヴァが立っていた。恐らく彼もルネから同じ話を聞いたのだろう。いつもの無表情な顔を更に硬くしており、緊張感が伝わってくる。
「お嬢様」
その声に泣きそうになる。
シヴァが好きだから、お父様には断って欲しかった。それが無理なら、はっきりお父様に嫌だと言って止めてもらうつもりだった。
婚約なんかせず、なんとかシヴァと生きる道を探したくて。でも、王家から直接出された命令ならお父様でも断れない。その事実が悔しくてたまらない。
「シヴァ、私っ……」
言葉に詰まる私に、何が言いたいのか彼も察したのだろう。こちらに近寄っていた足が止まり、胸に手を当てて丁寧な礼がされる。それは、執事が公爵令嬢にする仕草だ。
「ご婚約、おめでとうございます」
その言葉ではっきりと、一線を引かれたことが私にも分かった。
シヴァも私に第一王子と婚約をしろと言う。彼だけは一緒に反対してくれるって、どこかでそう思っていた。だって、彼は優しかったから。
全力で大好きだと伝えて態度に表しても、拒否なんてしないで温かく受け入れてくれた。その表情はいつもよりも圧倒的に柔らかくて、手を繋ぎたいとかいう私の我儘も許してくれていたから。だから、彼も私を好きでいてくれてるなんて、そう思っていた。思い返せば、彼からはっきりと好きだって言われたこともないのに。
「……シヴァは、私のこと好き?」
始めて尋ねた。もっと早く訊いておくべきだったと、今更思う私はとんでもない阿呆だ。
私の言葉に、礼をしていた顔を上げて彼は答えた。
「敬愛しております」
あくまで執事としての態度を崩さない。いつもみたいに、軽口で返事なんてしてくれない。これが大人に近づいたということか、そう理解する。それでも、彼のそんな言葉を聞きたくなんか無かった。
「シヴァのバカ!」
そう吐き捨てると、私は自室へと走って行った。
***
「さあさ、お嬢様。もう日付が無いんですからね!」
落ち込んで部屋に引きこもっている私に、バルバラは無遠慮に話しかけてきた。底抜けに明るく振舞う様子は、拗ねている私の暗い気持ちを吹き飛ばすようだ。
テキパキと侍女を使い、どんどんと王城へ行く準備を進めて行った。当日着ていくドレスが決まり、靴が決まり、首飾りやイヤリング、髪飾りが決まる。あっと言う間に集められ決められたそれらを試着し寸法を合わせる。有名な髪結いが呼ばれ当日のヘアスタイルを決めていく。
その間中、私は一言も口を利かなかった。子供っぽいと笑われてもしょうがない。それでも少しでも反抗したかったのだ。
「いつかお嫁に行くときは、このバルバラにも晴れ姿を見せて下さいね」
そう言って乳母は明るく笑う。彼女はリリアンナの亡き母と親友同士だった。バルバラの母がリリアンナの母の乳母。
乳兄弟とも呼ばれる関係で、彼女とリリアンナの母は仲良く育っていった。産後すぐに亡くなってしまった母から後を任されたバルバラは、リリアンナを本当の娘のように思っている。リリアンナの面倒を見るためにと、わざわざ仕事を優先させてくれることを条件に旦那を選んだほどだ。
リリアンナの記憶から見ても、一途な彼女には報いてあげたいと思っている。でも、それと第一王子との結婚は必ずしもイコールにはならないだろう。私の気持ちと、貴族としての務めと王家の命の重さ、その全てが分かっていての対応は随分と大人びていた。婚約したくないと我儘を言い、断られて拗ねている私とは大違いだ。
「今後どうなるかは分からないんです。せめてお嬢様は綺麗な服を着て笑っていてください」
そう笑顔で言うバルバラ。約一週間、ずっと笑顔でいてくれた彼女に励まされた。
そうだ、お父様がダメなら自分で断ればいいのだ。はっきりと第一王子の目を見て嫌だと言おう。ゲームの設定だと、彼は思慮深く優しい性格をしていた。嫌がることを無理強いするような人じゃなかったはずだ。
きっと大丈夫。そう決めて私は王城に行く日を迎えた。
当日の私は、誰が見ても見惚れるほどに美しく着飾られていた。
光の加減で赤色にも見えるピンク色のドレス。ふんだんにレースやリボンで飾られたそれには、瞳の色と同じ薔薇の飾りまでついている。ドレスとお揃いのリボンで淡い紫色の髪は編み込まれ、同じく薔薇の飾りが髪を彩っていた。拗ねていたため下がっていた口角は化粧で適度に口角が上がって見えるようになっている。その加減は正しくプロとしか言いようがない。
「綺麗だよ、リリー」
鏡の前でくるりと回って自分の姿を確認していると、私と同じ様に着飾ったお父様がやって来てそう言ってくれた。
「ありがとうございます」
「まだ拗ねてるのかい?」
声色から察したのか、困ったように尋ねてくる。
「もちろんです。でも、覚悟は決めました」
はっきり断るための、ね。
「リリーも大人になったなぁ」
そう言って笑うお父様に手を引かれて馬車に乗る。屋敷を振り返ると、見送りの使用人達の中にシヴァの姿があった。あれから一週間、ろくに顔を合わせていない。
リリアンナとして生きるようになって、そんなこと始めてだった。彼に何か言いたくて、でも言葉が見つからずに口を閉ざす。それは彼も同じようで、私と全く同じ反応をしていた。
結局お互いに何も言えず、彼はあの時のような綺麗な礼をする。そのまま馬車の扉は閉じられてしまった。彼がどんな表情をしているかすら、見ることも出来ず。
***
辿り着いた王城は、あまりに広すぎてどこをどう通ったのか全く分からなかった。白を基調とした城壁は太陽光に当たって光り輝き、深い青色の屋根が空に向かって伸びている。合間にある中庭は陽光で明るく輝き、植えられた花々が風に揺れていた。ずっと歩いている廊下は大理石の床に紺を基調とした絨毯が布かれ、埃一つない。時折すれ違いこちらに礼をしてくるメイドさん達がしっかり手入れをしているのだろう。他にも貴族やお役人、騎士の人達とすれ違うたび、挨拶をするお父様に合わせて私もお辞儀を披露した。
もはや何人に会ったのか、どんな人達に会ったのかすら分からない。ゲーム画面で見たような光景に胸が高まるが、緊張感の方が圧倒的に上で感動する暇などない。そうこうしている内に、ようやく視界が開ける。
「殿下がお待ちです」
横から突然現れた執事が丁寧に礼をし、お父様を案内する。慌てて私も続く。どこから現れたのか、全く姿も気配もなく分からなかった。これが王家お抱え執事の実力かと感心してしまう。
ついていった先は温室。一般家庭の大き目の一軒家くらい大きく、ガラス越しに中の花がよく見える。その扉の前で立ち止まったお父様は、執事と何やら話していた。こんなところで何の立ち話かと聞き耳を立てようとするが、身長差もあり小声で話しているためよく聞こえない。
「リリー」
話し終えたのかお父様は私と目が合うようにかがんでくれる。
「申し訳ないが、急な仕事で陛下と一緒に出掛ける用事が出来てしまってね。殿下とは二人で会ってくれないか?」
元々は王様、王妃様、第一王子の三人と顔合わせをする予定だった。きっと政務のことで何かあったに違いない。
「分かりました」
「殿下に失礼のないようにな」
優しく私の頭を撫でたお父様は一人でどこかへ行ってしまう。その後ろ姿に手を振っていると、執事に促されて温室の中へ入った。
温室は外よりも少し暖かいが、室温が丁度良く保たれているのか暑すぎない温度になっていた。魔力操作の訓練のおかげか、周囲の魔力の流れで温度管理に魔法が使われているのが分かる。努力の成果が出ているようで、心なしか浮かれてしまった。
少し歩くと薔薇で出来たアーチが続く。アーチを三つほどくぐった先の開いた空間に、白磁のテーブルや椅子が置かれた休憩スペースがあった。そこには一人の少年が座っている。
「殿下、リリアンナ・モンリーズ公爵令嬢をお連れしました」
「ありがとう」
執事が立ち止まり礼をすると、彼は柔和な笑みを浮かべて礼を口にした。穏やかそうな印象の瞳は、この国の王族の証でもある黄金色。髪は大人っぽく見えるよう上げており、シミや皺とは無縁そうな白い肌が露出していた。髪は海のように深く青く、光のせいか毛先に行くほど薄くなっているように見える。白を基調とした清潔感のある服がよく似合う。着ている服はリリアンナの目からも上等な品であることがうかがえ、アクセントで付いている小さな飾りすら宝石だ。
背筋は真っすぐ伸び、カップを戻す仕草は指先まで洗練されている。リリアンナよりも2つ年上なだけなのに、なぜこんなにも様になっているのか本当に不思議だ。
「リリアンナ・モンリーズです。今日はお呼びいただきありがとうございます」
執事の横で立ち止まり、何度も練習したカーテシーを披露する。幸いドレスに躓くことはなかった。今日の目的を思い出すと緊張するが、幸い大人はいないので楽な方だ。
「顔を上げて」
命じられるままに顔を上げ、彼と視線を合わせる。柔和な微笑は崩さないまま、その口元がゆっくりと弧を描いた。長い睫毛が揺れ、その表情は満面の笑みへと移る。とろけそうなほど優しい笑み。それが攻略対象その1、第一王子アレクサンド・リヒハイムの特徴だ。
ゲームで見た姿よりは明らかに幼いが、その外見と笑顔には確かな面影がある。
「どうぞ」
彼の正面の席を指示され、執事が椅子を引く。その引いてくれた椅子に座り、私は彼と目線を合わせた。やることが終わった執事は一度礼をすると、二人の邪魔にならぬよう温室の出入り口まで戻っていく。二人きりの空間になったことを把握して、私はすぐに行動を移した。
何度も脳内シミュレーションしたのだ。大丈夫、やれる。
「アレクサンド・リヒハイム殿下」
椅子を引き素早く立ち上がる。頭をぶつけないように一歩横にずれた。一度しっかり彼と目を合わせ、こちらを見ていることを確認する。
「お願いです」
土下座したいところだが、ドレスが汚れてしまうため不可能だ。その代わり、体の前で手を合わせ今までしたことがないくらい深く頭を下げた。
「どうかこの婚約、お断り頂けないでしょうか!」