この夜の意味〜声にできない恋を隠したら、完全無欠な御曹司の本気スイッチ入りました〜(旧:RISKY〜不敵な御曹司との恋は避けるべき〜)
私はその一言にドキリとして、手元の動きが止まる。何か怪しまれる点があったのだろうか。別に至って普通に過ごしていたはずなのに、村上くんは何か異変を感じ取ったらしく、私の心拍数が急速に上昇する。

「何もないよ」

「そうですか…では、お疲れ様でした」

「ああ、お疲れ」

内心焦っているのは私だけみたいに、彼は表情一つ変えずにそう言うから、村上くんもそれ以上何も聞いてくることはなかった。

壁にかけられた時計の針を見ると、すでに会食が予定されている時刻の30分前をさしている。いつもなら遅くても、30分前には約束の場に到着しているはずなのに、まだ社長が会社に残っているのは確かにとても珍しい。

「社長、良いんですか?」

「何が?」

「もう、時間になりますが…」

「ああ、そうだね」

そう言ってこちらも見ずに立ち上がるから、私も彼のことは気にせず手元の作業に戻ろうとする。

なぜか、その足音は後ろを通り過ぎることなく、私の背後でぴたりと止まった。かと思えば、彼は後ろから思いっきり抱きついてくる。

「わっ…ちょっと、社長……」

がっちり囲うその腕を、私は待ったをかけるように叩いてみせるけれど、全く動じることのない彼は、そのまま耳をくすぐるように話を続けてくる。

「もう今日は、顔見れないかもしれないから」

「だからって…」

「僕は初めから無理だって言ったよ?こうなること、分かってたから」

「でも、さっきまで普通に過ごしてたじゃないですか」

彼はまるで触れ合えなかった時間を恋しがるように首筋に顔を埋めてくる。

「……過ごしてたんじゃない、過ごそうとしてたんだよ」

しばらくすると、まるで気持ちを切り替えるように深いため息をつき、首筋からそのはっきりとした息遣いが離れていく。後ろを振り返ると、彼はすでに社長としての顔つきに戻っていた。

「じゃあ、気をつけて」

そして私の肩をポンと一つ叩いて、いつものように颯爽と次の予定へとむかっていく。

正常だと思っていた人が急にこうやって変貌するんだから、私の心臓もまるで戸惑うように暴れ回っている。でも彼があの家にいないと思うと、少し気が楽なような気もする。

結局日付が回っても、彼が帰ってくることはなかった。私はとっくに寝支度を済ませて、いつでも寝れるように上下グレーのスウェットを着て、ベッドの中に入っている。

このまま彼の姿を見る前に、早々と寝てしまいたいのに、なぜかその時を待っているように、ソワソワと心が落ち着かなくて目が冴えてしまう。もう動き続ける針の音に、意味もなく耳を傾けるしかなす術がない。

そんな静まり返った部屋に、彼が帰ってきたことを伝えるような物音が響き渡る。まずい…このまま起きていたら、何か期待して待っていたようにも受け取られ兼ねない。

真っ暗な部屋に突然光が入り込んでくるから、私は咄嗟にその光に背を向けると、彼のものであろう足音はこちらにじわじわと近づいてくる。

私はなるべく怪しまれないように、息を殺し、瞼だけ軽く閉じみせた。ギシッという軋み音にシーツが擦れる音を立てて、彼の存在が背後にあるのが見ずとも分かる。

そして彼は私が眠っていると思い込んだまま、そっと髪を撫でて、片頬に唇の柔らかい感触を当ててくる。その優しい刺激が妙にくすぐったくて、気を抜いてしまうと、思わず体が反応してしまいそうになる。

「はぁ…出来ることなら、ずっと閉じ込めておきたいのに」

えっ?いま、何かすごく恐ろしい言葉を聞いた気がする。彼が息を吐くたびに、お酒の強い匂いが鼻をさす。今日の相手にもかなり飲まされたのだろうか…。

「僕は、また何を馬鹿なことを…」

まるで何かと葛藤しているように、整えられた髪をわさわさと崩す音が聞こえてきて、その音が離れていくと同時に、またこの部屋は暗闇に吸い込まれていく。

私たちが繋がったのは、あの日の夜だけ。私はいつそうなっても良いように、迎え撃つ準備はいつも万端だった。でも、おはようとおやすみのキスを、頬に一つ。それ以上はどれだけお酒に酔っていても、決して手を出してこようとはしなかった。

こうなることを誰よりも望んでいたはずなのに。私たちはもうあのような関係になることはないんだと、あれは一夜限りの幻想のようなものだったんだと、終わりが近づくたびに見せつけられているような気がして、だんだんと日にちを経てるのさえ惜しくなってくる。
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