この夜の意味〜声にできない恋を隠したら、完全無欠な御曹司の本気スイッチ入りました〜(旧:RISKY〜不敵な御曹司との恋は避けるべき〜)
「何で、君がそれを?」

「あのとき、私が手を差し伸べていたら、未来は変わっていたでしょうか……」

「無理もないよ。お互い、まだ子供だったのだから」

彼はまるで何かを諦めたように、どこか遠くを見つめていた。そう、私たちが今どれだけ強くなったとしても、過去は変わりようがないのだから。

ずっと一人で通ってきた道を、彼が運転する車にすべてを預けて、ぼんやりと眺めていると、いつもとはどこか違った感じがする。少し心が軽くなったような、重い荷物が肩から下ろされたような、そんな感じだ。

私がこの施設に自分以外の誰かを連れてきたのは初めてだから、長年お世話になっているヘルパーさんも彼に興味津々だった。

いつも以上に次から次へと投げかけられる問いかけは、ついに隣に立つ彼にも飛んでいく。

「そちらのイケメンさんは、もしかして…?」

彼はそんな質問にも丁寧に対応してみせたから、私が出る幕など一つもなかった。その答えは、それ以上でもそれ以下でもない、今の私たちの関係を最もよく表すものだった。

「小さい頃、文宏さんに良くしてもらったんです」

「そうでしたか。この子、ずっと一人で頑張ってきたんです。どうか、支えてあげてちょうだいね」

彼は全ての言葉を飲み込むように深く一礼をした。私も彼女の言う通り、ずっと一人で戦って、一人で父の無念を晴らさなければと、がんじがらめになっていた。でも結局一人では何もできなかった。むしろ本当に一人で戦っていたのは、彼の方なのかもしれない。違う、周囲の人間が彼を一人にさせたのだ。私も含めて。

いつもは少し力を入れて、重たいドアを開けていたが今日は彼の手が私よりも先に伸びる。彼を案内するようにその部屋に入ってみせると、首に聴診器をかけた白衣姿の男性が父の眠るベッドのそばに立っていた。

「先生」

その人は月に何度かこの施設を訪れている訪問医のおじさんで、父と同じく、初めて会ったときにはなかった白髪交じりの髪やいくらかばかりシワの増えた顔が、時の流れを感じさせる。

「ああ、文乃ちゃん。ちょうど良かった。いま回診を終えたところだったんですよ」

父の変わり果てた姿を見て、彼の足は入口で止まったまま、それ以上中に入ろうとはしない。かなり戸惑った様子で、近寄ることさえ躊躇っているようだ。仕方がない、私も最初はそうだったから。

「話しかけてあげてください。あなたの声もきっと届いていると思いますから」

彼は医師の言葉にそう促されて、恐る恐る父の手元に近づいて、シワの増えた弱々しい手を優しく両手で包み込む。

「文宏さん。ごめんなさい……来るのが遅くなってしまって」

そのとき、力という力が抜けてぐったりとしていた指が、彼の言葉に応えるようにピクリと反応した。

「父さん!?」

彼は目を輝かせて、目の前で起こった奇跡のような出来事を私にも共有してくる。

「文乃!今、確かに動いたよな?」

「ええ……」

医師でさえ想像のできない出来事だったようで、驚きながらも胸ポケットからペンライトを取り出し、父の瞳孔を確認している。

「望月さん?聞こえますか?」

その問いかけには、やっぱり返事は返ってこない。

「先生、これは一体…?」

「何かお父さんの中の強い思いが引き金になって、意識が少しずつ戻ってきているのかもしれませんね」

ただ、かすかな希望が見えたのはその一瞬だけ。父にそれ以上の変化は、訪れなかった。

そして、燦々と輝く太陽は空から姿を消し、冬の気配を感じさせる涼しげな風が、私たちの肌を掠めている。

東条グループの代表権を第三者に引き継ぐ手続きは、あのときすでに済ませていたらしい。彼はあれから一度も動くことのない父の隣で、翌る日も翌る日も夜通しそばに付きっきりだ。

私はあのあと、彼のそばから逃げるように一人で自宅に戻った。東条太郎は今も塀の向こうで罪を償っている。でも、なぜかずっと情けなくて仕方なかった。これが正しい道だったと、私にはどうしても思えなかったから。

日が落ちるとその風は一層強くなり、立て付けの悪い網戸はガタガタと音を立て出す。そんな変わり映えない生活音の中に、珍しく一本の着信音が加わる。電話の向こうにいるのは、宗高さんだ。

この後ろめたさは、彼を犠牲にした私が一生背負っていくべきものなのだと、そのときまでは本当にそう思っていた。でも、何度も何度も鳴り止まないその音に、私の心は居ても立っても居られなくなった。このざわざわとした胸騒ぎは、一度経験したことがあったから。

やはり、聞こえてきた声はなぜかいつになく興奮した様子だった。

「もしもし?文乃?」

「……何か、ありました?」

「文宏さんが……」

「え?」

「動けるようになったんだよ!ほら、文宏さん」

そうして言葉が途切れると、次に聞こえてきたのはもう一度聞きたいと願い続けた、一瞬で20年の時をも超えるような声だった。

「文乃か?ごめんな…お前のことも考えずに、父さん、あんなこと…」

「父さん!今すぐ行くから!」

上下グレーのスウェットという、夜風にあたるには寒すぎる、外に出るには生活感がありすぎる格好だ。そんなこと考える暇もないくらいに、父の声を聞いた途端、私の足は前に前に進んでいた。小さなライトが頼りの真っ暗闇を、私を乗せたタクシーだけが走る。

「文宏さん……良かった、本当に良かった」

とびらを開けると、心から嬉しそうに父の手を握りしめながら、何度もその言葉を繰り返す彼の姿があった。でもその後ろ姿は、すべての精力を使い果たしたように、隅々まで弱り切っている。

私は素直に喜べなかった。

20年間ずっと悔やみ続けた、あの瞬間を思い出したから。このままだと、あのとき父にしたように、また自分ばかり守られたまま、大切な人を犠牲にしてしまう。やっぱり、こんなの間違ってる。
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