『沈黙のプリズム ―四人の約束―』

第10章「遠ざかる背中」

朝の教室。
春の終わりを告げる風が、カーテンを揺らしていた。
黒板の隅には「期末試験まであと十日」と書かれている。
ざわめくクラスの中で、瑠奈は窓際の席から空を見上げていた。

白い雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていく。
その速さが、季節の終わりを告げているようだった。

(あの日から、一度も話していない)

悠真と麗華が並んで話す姿を、もう何度見ただろう。
彼の笑顔を見ても、心は静かに波立つだけ。
痛みすら、少しずつ薄れていく。

それが、かえって悲しかった。



放課後、校舎の廊下。
瑠奈はひとり、下駄箱の前で靴を履き替えていた。
ふと見ると、昇降口の向こうに悠真が立っている。

夕陽に照らされた横顔。
手には花祭でもらった記念写真が握られている。

彼は気づかぬふりをして、
ゆっくりと外へ歩き出した。

「……待って」

声が喉の奥で震えた。
けれど、その声は届かない。

瑠奈の手の中では、例の“封をしていない手紙”がくしゃりと音を立てた。
(もう、渡せない――)



校門を出た先、夕暮れの光の中。
麗華が待っていた。
「悠真くん、やっぱり来た」
「約束したからな」
「ふふ……やっぱり、そういうところ、好き」

その会話が遠くで聞こえる。
笑い声。
夕陽のオレンジ色が二人の影を重ねていた。

瑠奈は、ただその背中を見送ることしかできなかった。
風に吹かれた髪の隙間から、
彼の背中が少しずつ小さくなっていく。

――まるで、二度と届かない夢のように。



「瑠奈」
背後から拓也の声。
彼は息を切らしながら立っていた。

「……行かなくていいのか?」
「もう、いいの」
「ほんとに?」
「うん。
 私は“沈黙”を選んだから」

拓也は目を細めた。
「……沈黙って、強いようで弱いな」
「うん。だから、私、少しずつ強くなる」

そう言って、瑠奈は微笑んだ。
その笑顔には、かすかな決意の光があった。

拓也は一歩近づき、
「俺は、これからもお前のそばにいる」と言った。
「ありがとう」
瑠奈は静かに答えた。
けれど、その瞳はどこか遠くを見ていた。



夜。
部屋の明かりを落とし、
机の上に置いた手紙を見つめる。

封筒の端に、カスミソウの小さな花びらが挟まっていた。
それを指で摘み、瑠奈は小さく息を吐く。

「さよなら、悠真くん」

そう呟いて、手紙を引き出しの奥にしまった。
光の庭で交わした約束――
“離れない”と誓った春の日の記憶が、
ゆっくりと過去に沈んでいく。



翌朝、校庭の桜の木の下。
瑠奈は静かに立ち止まった。
花はすでに散り、枝には新しい緑が芽吹いていた。

そこに、悠真が通りかかる。
二人の間を、春風が通り抜ける。

「……おはよう」
瑠奈が言う。
悠真は少し驚いたように目を見開き、
それから、かすかに微笑んだ。

「おはよう」

それだけ。
でも、もう十分だった。
言葉の少ない朝の挨拶が、
二人にとっての“最後の会話”になった。



放課後、教室の黒板には「卒業まであと三週間」の文字。
時間は、もう戻らない。

瑠奈は鞄を肩にかけ、
最後にもう一度だけ教室を振り返った。

机の上に、淡い光が差している。
その光がまるで「約束の名残」のようで、
胸が少しだけ締めつけられた。

(さよなら、あの春)

そして、彼女は静かに教室を出た。
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