『沈黙のプリズム ―四人の約束―』
第23章「夜の約束」
夜の街は、静かに濡れていた。
ガラス越しの街灯が滲み、道路に光の粒が散る。
ホテルラウンジの奥、窓際の席で瑠奈は小さく息を整えた。
照明に照らされたテーブルの向こう、悠真が座っている。
黒いスーツに淡いシャツ――あの頃より少し痩せ、
けれど目の奥の光は、昔よりも柔らかくなっていた。
「来てくれて、ありがとう」
「呼んでくださって、ありがとうございます」
二人の声が重なる。
けれど、そこに気まずさはなかった。
紅茶の香りが静かに漂う。
少し間を置いて、瑠奈が口を開いた。
「……あの日、あなたの記者会見、見ました」
「そうか」
「“誤解を生んだ責任は自分にある”って言ってましたね」
「それしか言えなかった。
本当は“守れなかった”って言いたかったけど、
それも結局、言い訳だと思って」
瑠奈は微笑んだ。
「いいえ。言葉にしただけで、十分です。
あなたが黙ってしまわなかったことが、何より嬉しかった」
悠真の目が少しだけ見開かれた。
「……君は、強くなったな」
「あなたが沈黙を破ってくれたから、
私も“声を出していい”と思えるようになったんです」
外では雨が小さく音を立てていた。
そのリズムが、まるで二人の呼吸を整えるかのように続く。
「拓也に会ったと聞いた」
「ええ。今日、お会いしました」
「彼は何か言ってたか」
「“泣いたら黙っていない”って」
「……彼らしいな」
「でも、私もう泣きません。泣く前に話すって決めたから」
悠真は静かに頷く。
「俺も。沈黙を優しさに隠すのは、もうやめた」
「それが、私たちの約束ですね」
二人の間に灯るランプの光が、
まるで温度を持つように柔らかく揺れた。
「瑠奈」
「はい」
「俺はずっと、自分の不器用さに負けてきた。
誰かを想うより、傷つけないことを選んでた。
けど、君を失って分かった。
――沈黙は守るものじゃなく、奪うものなんだ」
「奪う?」
「うん。君の言葉も、君の笑顔も、
全部、俺の沈黙が奪ってた」
瑠奈はそっと視線を上げた。
「……取り戻せますよ」
「え?」
「今こうして話してるから。
私たちはもう、奪う沈黙じゃなく、“育てる言葉”の方にいるんです」
悠真の胸に、何かが静かに落ちた。
その音は外の雨よりも優しかった。
「これから、いろんなことがあると思います。
噂も、過去も、誤解も消えないかもしれない。
でも――私、黙らずにあなたと歩きたい」
瑠奈の言葉に、悠真は笑った。
その笑顔は、初めて出会った頃よりもずっと穏やかだった。
「俺も、言葉で君を選び続けるよ。
たとえ、うまく言えなくても」
外の雨が、少しずつ弱まっていく。
窓を伝う雫が光を反射し、
街の夜がゆっくりと輪郭を取り戻していった。
「この雨が止んだら、少し歩こう」
「ええ。……並んで」
「並んで」
二人の指が、テーブルの上でそっと触れた。
もうためらいはなかった。
かつての“沈黙”は、
いま“穏やかな間(ま)”へと変わっていた。