『沈黙のプリズム ―四人の約束―』
第3章「噂という影」
朝の光が、廊下の窓ガラスを淡く照らしていた。
新しい一日が始まる――はずだった。
教室に入ると、空気がいつもと違っていた。
ひそひそと交わされる声、すれ違うたびに感じる視線。
「ねぇ聞いた? 一条くんと来栖さん、付き合ってるらしいよ」
「えっ、本当? お似合いじゃない?」
「昨日、資材庫で一緒にいたって」
プリントを抱えた瑠奈の足が、止まった。
耳にした瞬間、胸の奥が小さく軋む。
――資材庫。
あの日の光景が、脳裏によみがえる。
重なった手、笑う声。
(あれは……偶然だった。きっとそう……)
そう思おうとするのに、指先が震えてプリントを落とした。
「大丈夫?」
しゃがみこんだのは悠真だった。
穏やかな声、いつもの笑顔。
「……ありがとう」
拾われたプリントを受け取る手が、少し冷たい。
彼の優しさが、今は痛い。
「どうかした? 顔色悪いけど」
「ううん、なんでもない」
そう言って笑うしかなかった。
“なんでもない”――それが嘘だと、彼は知らない。
昼休み。
校庭のベンチで、麗華が友人たちに囲まれていた。
「え~? そんな噂、誰が言い出したのかしら」
唇に微笑を浮かべながら、否定も肯定もしない。
「でも、一条くんってほんと優しいの。
こないだも資料を運んでくれて、手が触れちゃって……」
その言葉に、女子たちが黄色い声を上げる。
「やっぱりお似合いじゃん!」
「麗華ちゃん、告白されたの?」
「ううん、まだ。でも――春の風って、恋を運んでくるでしょ?」
笑い声が弾ける。
その少し離れた木陰で、瑠奈は静かに立ち尽くしていた。
足元の影が、まるで自分の心のように薄く揺れる。
(春の風……私には、冷たいだけ)
その時、後ろから拓也が声をかけた。
「噂、聞いた?」
「……うん」
「信じるのか?」
「……わからない。でも、麗華ちゃん、嘘はつかないと思う」
「そうやって人を信じると、傷つくぞ」
拓也の声は、優しいけれどどこか苦かった。
「……でも、信じてないふりをする方が、もっと痛いから」
「……瑠奈らしいな」
拓也は短く笑い、桜の枝を見上げた。
「俺なら、お前を泣かせたりしないのに」
その一言に、瑠奈は俯いた。
「……そんなこと、言わないで」
「どうして?」
「優しさで言われたら、もっと苦しくなる」
風が吹き抜け、桜の花びらが二人の間を流れていく。
それは、近づけない距離を示すようだった。
放課後。
教室に戻ると、悠真が窓際にいた。
沈む夕陽が彼の横顔を染めている。
「桐山」
「……なに?」
「噂、聞いたかもしれないけど……」
「うん」
「俺、そんなつもりないから。あれ、ただの手伝いだよ」
その真剣な眼差しに、少しだけ救われる。
でも同時に、瑠奈は気づいてしまった。
彼の声には“焦り”も“想い”もなく、
ただ“誤解を解きたいだけ”の響きがあることに。
「わかってる。悠真くんがそういう人じゃないって」
「なら、よかった」
悠真は安心したように微笑んだ。
その笑顔を見つめながら、瑠奈は胸の奥で小さくつぶやいた。
(――どうして、そんなに優しいの。
優しいなら、どうして私じゃないの)
彼が去ったあと、窓の外には橙色の空。
風がカーテンを揺らし、机の上の桜の花びらをそっと運んでいった。
瑠奈はその花びらを指先で掬い、静かに呟いた。
「……春は、長くは続かないんだね」
その小さな声は、夕陽に溶けて消えた。
けれど確かに、
“友情”と“恋”の境界線が、静かに崩れ始めていた。