「呪いではなく、特性です」ーーASD氷帝の孤独を癒やしたら、自由区の女王への溺愛が止まらないーー
氷の視線
リリアンは、一歩前に出た。 心臓が、早鐘のように打っている。
「ようこそ、アークライトへ。皇帝陛下」
リリアンは、背筋を伸ばし、カイゼルの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「私が、この特区の総監、リリアン・アークライトです」
リリアンがかつて、公爵令嬢であったことなど、調べはついているのかもしれない。けれど、とうに捨てた過去だ。リリアンは意図的に平民めいた――平民が頑張って丁寧語を使っているような――口調をつくった。カーテンシーも、しない。
氷の皇帝と、追放された公爵令嬢。
二人の視線が、辺境の乾いた空気の中で、静かに交差した。
◇
「では、陛下。こちらへ……私たちの『記録院』です」
リリアンが最初にカイゼルを案内したのは、レンガ造りの建物だった。
「ここでは、アークライトで起こる森羅万象を記録、分析しています」
扉を開けると、無数の棚と、そこで黙々と作業をする人々が目に飛び込んできた。部屋の中は、インクと紙の匂い、そして静かな熱気で満ちていた。
リリアンは、棚の一つから記録板を手に取り、カイゼルに示した。
「昨日の天気、湿度、風速。各農地における土壌の窒素・リン酸・カリウム含有量の推移。水源からの取水量と、各区画への配分量。労働者一人当たりの……」
カイゼルの眉が、ごくわずかに動いた。
「つまり、スキルという不確定要素を排し、観測可能なデータのみに基づいてシミュレーションし、政策に最適解を導き出す、と?」
一瞬で本質をついたカイゼルの質問に、リリアンは内心、驚いた。
「仰るとおりです……これが、ここ5年の収穫量のグラフです」
リリアンは、右肩上がりに伸び続ける曲線を指した。
「農業関係のスキル持ちがいると、つい頼りたくなりますが……できるだけ避けています」
カイゼルの側近たちが、息を呑むのが分かった。帝国の、豊かな直轄領でさえ、これほど安定して収穫量を伸ばし続けている場所はない。
「品種改良をしていると聞いた……『荒れ地に芽吹く、黄金の麦』の。それも、スキルによるものではないのか」
「はい、地道なかけ合わせによるものです。頭を使って地道に努力すれば……誰にでも、可能な」
「誰にでも、か。アークライト自体が、たった一人の総監の、強い影響下にあるようにも、見えるがな……。その、麦畑を見せよ」
カイゼルはなおも冷たい視線を崩さないまま、けれど早口で命じた。
◇
黄金色の波がどこまでも続く、麦畑。
「我々の生産性が高いのは、工業式農業の賜物です。誰にでも使用できる『機械』を活用し、できるだけ広い土地で、一度に作るのは単一の作物。土地の力を最大限に引き出すため、『輪作』も徹底して……」
カイゼルは相変わらず無表情だったが、『工業式農業』に関して、いくつも鋭い質問をしてきた。
(『査察』という建前だったけど、もしかすると完全な建前ではなかったのかも……)
カイゼルは明らかに、アークライトを知りたがっている。
金色の絨毯を、連れ立って歩く。
農民が、生き生きと働いていた。額に汗し、土にまみれ、しかしその表情は明るい。
農民は、皇帝の一行に気づくと、一瞬驚いた面持ちになる。しかしその後、リリアンの姿を認めると、安堵したように微笑み、軽く会釈をして、また自分たちの仕事に戻っていった。
「恐怖による支配では、なさそうだ」
カイゼルは、小さく呟いた。
「貴方と、貴方の民は……俺に、怯えたり媚びへつらったり、しないのだな」
公的な場での『俺』という自称が、気になった。若き皇帝が、ほんの少しだけ、本音をのぞかせてくれている気がした。
(私が実は怯えてると、気取られなくて良かった……いや、今はそんなことはどうでもいい。どう答える……? 無難な発言に逃げてもいい……でも)
賭けてみたい。この、聡明な皇帝に。
「アークライトは、自由の民。私とて、彼らの主ではございません。彼らの主は、彼ら自身。自ら荒野を切り開き、緑に変えてきた開拓者たちの、それが誇りにございます」
反乱分子と見做されても仕方ないような言葉が、思わず溢れた。
(誤魔化したり、しない。私たちは、間違ってない。……どうか、伝わって。私たちは、己の力で自らを導くからこそ、輝けるのだと。その権利を貴方たちに奪われてしまったら、アークライトはかつての荒れ地に、戻るのだと)
心臓は早鐘を打っていた。もし、この賭けに、負けたら……
「アークライトは、帝国の一部とは、なりえないと? ……面白い」
無表情だったカイゼルが、初めて口の端を持ち上げてみせた。
(……勝った)
◇
「アークライト……興味深い。査察をこれで終えるのが、惜しいほどだ」
定められたスケジュールを一通り終えて、カイゼルはリリアンの目をじっと見た。社交辞令には聞こえない。
リリアンは、躊躇いつつも口を開いた。今のところ、査察は順調だ……けれど、もう一押しが欲しい。
「……今お見せしてきたのは、私たちのシステムの『光』の部分。ですが、物事には必ず光と影がございます。このアークライトも、例外ではありません」
リリアンは、カイゼルに向かって深く一礼した。
「もしお許しいただけるのでしたら、私たちの『影』の部分も、ご覧いただきたく存じます」
その瞬間、リリアンの背後で控えていたアッシュやギデオンが、ぎょっとした顔になった。
「リリィ姉さん!何を……!」
「陛下! 辺境の不衛生な場所など、陛下の御身に障ります!」
側近の言葉など、カイゼルの耳には入っていないようだった。
カイゼルはただ、リリアンだけを見ている。
「黙れ」
カイゼルが放った一言に、騒がしかった周囲が、水を打ったように静まり返った。
「面白い。案内しろ、総監」
リリアンたちは、街の北西地区へと向かった。
整然と区画整理されたアークライト中央区とは違い、道が舗装されておらず、雨季にはぬかるみになる。
家々は、廃材を寄せ集めて作ったような、粗末な掘っ立て小屋がほとんど。空気には、生活排水と、澱んだ匂いが混じり合っていた。
ここに住むのは、ここ一、二年で流れ着いてきた人々がほとんどだった。帝国の他の場所で全てを失い、最後の望みを託してこの地にやってきたばかりの。
彼らは、皇帝一行の突然の来訪に、道端に座り込んだまま、不信と諦めが混じった目で、リリアンたちを眺めていた。その瞳には、中央区の民に見られたような、誇りや希望の光はない。
「これが、貴方のシステムの限界か……私には、帝都のスラムと何ら変わらぬ、見捨てられた者たちにしか見えないが」
どこか、失望したような声だった。
リリアンは、周囲を見渡した。この地区の住民たちの目を、真っ直ぐに見返して、きっぱりと告げた。
「いいえ、陛下。彼らは『見捨てられた者』ではございません。彼らは、私たちの『未来』です」
「未来、だと?」
カイゼルの声に、初めて怪訝な色が混じる。
リリアンは、力強く宣言した。
「必ず、ここにいる人々も、アークライトに住まう誰もが、スキルや生まれに頼ることなく、自らの力で立ち、胸を張って生きられる日が来ます。なぜなら」
演説のために鍛えているリリアンの声が、その場に響き渡った。 住民たちの瞳が、わずかに動いたのが分かった。
「私は10年前、帝都を追放され、最弱とされるスキルを頼りに、この地にたどり着きました……微かな水の気配を、辿って。10年前のアークライトには、全てを諦めた人々と、枯れた井戸しかなかった。この地には、名前さえなかった。……今、ここに住まう彼らは、かつての私自身なのです」
「貴方が……」
「……たとえ10年かかろうと、20年かかろうと。このアークライトを、帝国中の誰からも見捨てられた者たちが、最後に辿り着く、希望の地にしてみせます」
カイゼルは、リリアンの言葉に何かを感じたようにざわめき始めた住民たちの顔に、視線を向けた。
「それは、貴方にしかできないと、言いたいわけか……。貴方はまるで、この国のもう一人の女王だな」
「ようこそ、アークライトへ。皇帝陛下」
リリアンは、背筋を伸ばし、カイゼルの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「私が、この特区の総監、リリアン・アークライトです」
リリアンがかつて、公爵令嬢であったことなど、調べはついているのかもしれない。けれど、とうに捨てた過去だ。リリアンは意図的に平民めいた――平民が頑張って丁寧語を使っているような――口調をつくった。カーテンシーも、しない。
氷の皇帝と、追放された公爵令嬢。
二人の視線が、辺境の乾いた空気の中で、静かに交差した。
◇
「では、陛下。こちらへ……私たちの『記録院』です」
リリアンが最初にカイゼルを案内したのは、レンガ造りの建物だった。
「ここでは、アークライトで起こる森羅万象を記録、分析しています」
扉を開けると、無数の棚と、そこで黙々と作業をする人々が目に飛び込んできた。部屋の中は、インクと紙の匂い、そして静かな熱気で満ちていた。
リリアンは、棚の一つから記録板を手に取り、カイゼルに示した。
「昨日の天気、湿度、風速。各農地における土壌の窒素・リン酸・カリウム含有量の推移。水源からの取水量と、各区画への配分量。労働者一人当たりの……」
カイゼルの眉が、ごくわずかに動いた。
「つまり、スキルという不確定要素を排し、観測可能なデータのみに基づいてシミュレーションし、政策に最適解を導き出す、と?」
一瞬で本質をついたカイゼルの質問に、リリアンは内心、驚いた。
「仰るとおりです……これが、ここ5年の収穫量のグラフです」
リリアンは、右肩上がりに伸び続ける曲線を指した。
「農業関係のスキル持ちがいると、つい頼りたくなりますが……できるだけ避けています」
カイゼルの側近たちが、息を呑むのが分かった。帝国の、豊かな直轄領でさえ、これほど安定して収穫量を伸ばし続けている場所はない。
「品種改良をしていると聞いた……『荒れ地に芽吹く、黄金の麦』の。それも、スキルによるものではないのか」
「はい、地道なかけ合わせによるものです。頭を使って地道に努力すれば……誰にでも、可能な」
「誰にでも、か。アークライト自体が、たった一人の総監の、強い影響下にあるようにも、見えるがな……。その、麦畑を見せよ」
カイゼルはなおも冷たい視線を崩さないまま、けれど早口で命じた。
◇
黄金色の波がどこまでも続く、麦畑。
「我々の生産性が高いのは、工業式農業の賜物です。誰にでも使用できる『機械』を活用し、できるだけ広い土地で、一度に作るのは単一の作物。土地の力を最大限に引き出すため、『輪作』も徹底して……」
カイゼルは相変わらず無表情だったが、『工業式農業』に関して、いくつも鋭い質問をしてきた。
(『査察』という建前だったけど、もしかすると完全な建前ではなかったのかも……)
カイゼルは明らかに、アークライトを知りたがっている。
金色の絨毯を、連れ立って歩く。
農民が、生き生きと働いていた。額に汗し、土にまみれ、しかしその表情は明るい。
農民は、皇帝の一行に気づくと、一瞬驚いた面持ちになる。しかしその後、リリアンの姿を認めると、安堵したように微笑み、軽く会釈をして、また自分たちの仕事に戻っていった。
「恐怖による支配では、なさそうだ」
カイゼルは、小さく呟いた。
「貴方と、貴方の民は……俺に、怯えたり媚びへつらったり、しないのだな」
公的な場での『俺』という自称が、気になった。若き皇帝が、ほんの少しだけ、本音をのぞかせてくれている気がした。
(私が実は怯えてると、気取られなくて良かった……いや、今はそんなことはどうでもいい。どう答える……? 無難な発言に逃げてもいい……でも)
賭けてみたい。この、聡明な皇帝に。
「アークライトは、自由の民。私とて、彼らの主ではございません。彼らの主は、彼ら自身。自ら荒野を切り開き、緑に変えてきた開拓者たちの、それが誇りにございます」
反乱分子と見做されても仕方ないような言葉が、思わず溢れた。
(誤魔化したり、しない。私たちは、間違ってない。……どうか、伝わって。私たちは、己の力で自らを導くからこそ、輝けるのだと。その権利を貴方たちに奪われてしまったら、アークライトはかつての荒れ地に、戻るのだと)
心臓は早鐘を打っていた。もし、この賭けに、負けたら……
「アークライトは、帝国の一部とは、なりえないと? ……面白い」
無表情だったカイゼルが、初めて口の端を持ち上げてみせた。
(……勝った)
◇
「アークライト……興味深い。査察をこれで終えるのが、惜しいほどだ」
定められたスケジュールを一通り終えて、カイゼルはリリアンの目をじっと見た。社交辞令には聞こえない。
リリアンは、躊躇いつつも口を開いた。今のところ、査察は順調だ……けれど、もう一押しが欲しい。
「……今お見せしてきたのは、私たちのシステムの『光』の部分。ですが、物事には必ず光と影がございます。このアークライトも、例外ではありません」
リリアンは、カイゼルに向かって深く一礼した。
「もしお許しいただけるのでしたら、私たちの『影』の部分も、ご覧いただきたく存じます」
その瞬間、リリアンの背後で控えていたアッシュやギデオンが、ぎょっとした顔になった。
「リリィ姉さん!何を……!」
「陛下! 辺境の不衛生な場所など、陛下の御身に障ります!」
側近の言葉など、カイゼルの耳には入っていないようだった。
カイゼルはただ、リリアンだけを見ている。
「黙れ」
カイゼルが放った一言に、騒がしかった周囲が、水を打ったように静まり返った。
「面白い。案内しろ、総監」
リリアンたちは、街の北西地区へと向かった。
整然と区画整理されたアークライト中央区とは違い、道が舗装されておらず、雨季にはぬかるみになる。
家々は、廃材を寄せ集めて作ったような、粗末な掘っ立て小屋がほとんど。空気には、生活排水と、澱んだ匂いが混じり合っていた。
ここに住むのは、ここ一、二年で流れ着いてきた人々がほとんどだった。帝国の他の場所で全てを失い、最後の望みを託してこの地にやってきたばかりの。
彼らは、皇帝一行の突然の来訪に、道端に座り込んだまま、不信と諦めが混じった目で、リリアンたちを眺めていた。その瞳には、中央区の民に見られたような、誇りや希望の光はない。
「これが、貴方のシステムの限界か……私には、帝都のスラムと何ら変わらぬ、見捨てられた者たちにしか見えないが」
どこか、失望したような声だった。
リリアンは、周囲を見渡した。この地区の住民たちの目を、真っ直ぐに見返して、きっぱりと告げた。
「いいえ、陛下。彼らは『見捨てられた者』ではございません。彼らは、私たちの『未来』です」
「未来、だと?」
カイゼルの声に、初めて怪訝な色が混じる。
リリアンは、力強く宣言した。
「必ず、ここにいる人々も、アークライトに住まう誰もが、スキルや生まれに頼ることなく、自らの力で立ち、胸を張って生きられる日が来ます。なぜなら」
演説のために鍛えているリリアンの声が、その場に響き渡った。 住民たちの瞳が、わずかに動いたのが分かった。
「私は10年前、帝都を追放され、最弱とされるスキルを頼りに、この地にたどり着きました……微かな水の気配を、辿って。10年前のアークライトには、全てを諦めた人々と、枯れた井戸しかなかった。この地には、名前さえなかった。……今、ここに住まう彼らは、かつての私自身なのです」
「貴方が……」
「……たとえ10年かかろうと、20年かかろうと。このアークライトを、帝国中の誰からも見捨てられた者たちが、最後に辿り着く、希望の地にしてみせます」
カイゼルは、リリアンの言葉に何かを感じたようにざわめき始めた住民たちの顔に、視線を向けた。
「それは、貴方にしかできないと、言いたいわけか……。貴方はまるで、この国のもう一人の女王だな」