「呪いではなく、特性です」ーーASD氷帝の孤独を癒やしたら、自由区の女王への溺愛が止まらないーー

軋んでいく、宴にて

 その夜。
 自由区舎のささやかな食堂で、歓迎の宴が開かれた。 アークライトで採れた最高の食材を使った、豪奢ではないけれど心のこもった料理。テーブルには、香辛料で焼いた猪の肉、木の実を添えた鳥の丸焼き、チーズを添えたポテト、色とりどりの野菜を使ったサラダ、焼きたての麦パンが並ぶ。
 カイゼルの側近たちは、一瞬、フルコースでもないそれらの料理に眉をひそめたが、一口食べると、食材の持つ力強い味わいに、目を見張った。

 お酒も入って、他愛ない会話が弾み、宴は砕けた雰囲気で進んでいった。
 だが、当のカイゼルは、ほとんどの料理に手を付けなかった。 特定の香辛料が使われた肉料理を避け、強い香りのするチーズを遠ざける。
 カイゼルの前には、料理が、ほとんど手付かずのまま置かれていた。
「やはり、呪いの……」
「そもそも、このような食事では……」
 皇帝の側近たちが、青い顔でひそひそと囁き合う。自由区の幹部たちも、皇帝の不興を買ったのではないかと、緊張で顔をこわばらせていた。

 宴もたけなわ、という頃合いで、事件は起こった。
「この椅子を、取り替えよ」
 カイゼルが突然、命じた。
 それは、この特区で手に入る中で、最も高価で美しい、光沢のある絹織物の布が張られ、羊毛をクッションにした、ふかふかとした特別な椅子だった。良かれと思っての、精一杯のもてなしだった。
 その場の空気が、凍りついた。料理に手をつけず、最高級の椅子を拒絶する。それは、この宴の主催者である私、リリアン・アークライトに対する、明確な侮辱行為と受け取れた。
 ギデオンやアッシュは、怒りで拳を握りしめていた。
 シン、と静まり返った食堂。誰もが、皇帝の奇行に、戸惑い、または怒っていた。

 ただ一人を、除いて。
(……パンは食べてくださっている……? 避けているのは、香辛料を使った肉料理とチーズ……強い香りが苦手なのかも……? 気温の高いアークライトでは、どうしてもキツめの香辛料を使いがちになるから……。椅子だって、最初から拒絶する気なら、いくらでもできたはず。……座っていられなく、なった?)

 前世の知識が、蘇る。人によって、感覚情報の処理プロセスが大きく異なること。ある人には心地よい刺激が、別の人には耐え難い苦痛となりうること。そして、そのような人々とオーバーラップする特性として、人の気持ちの理解が難しい代わりに、非常に高い知能を持つ――
(アスペルガー症候群……いえ、最近はアスペルガーという言い方はもうしない……? 自閉症スペクトラム(ASD)?)
 リリアンは、静かに席を立った。 凍りついた空気の中、リリアンの立ち上がる音だけが、やけに大きく響いた。 そして、リリアンは給仕の耳元に、そっと囁いた。

 永遠にも感じられる、気詰まりな時間が過ぎた。
 二人の給仕が、新しい椅子と、いくつかの皿をカイゼルの元へ恭しく運んできた。
 場の全員が、息を呑んでその光景を見守る。

 皇帝の機嫌を損ねた今、これ以上何をするつもりなのか。誰もが、そう思っただろう。

 新しい椅子は、華美な装飾は何もない、ただの頑丈な木の椅子。
 そして、もう一つ。 給仕がカイゼルの前に置いた皿の上には、飾り気のない料理が乗っていた。 塩だけで味付けされた、蒸し鶏。茹でただけの、甘みの強い人参とジャガイモ。強い香辛料も、複雑なソースも、一切ない。ただ、素材そのものの味を、静かに味わうためだけの料理。
 カイゼルは、目の前に置かれた椅子と料理を、信じられないという目で見つめていた。
「……なぜ、分かった」
 リリアンは、ただ、カイゼルの目を見て、穏やかに微笑みかけた。ここでカイゼルの『特性』を公表することは、おそらく誰のためにもならない。
 カイゼルは、しばらくリリアンを見つめていたが、やがて視線を落とし、新しい椅子に深く腰掛けた。そして、ためらいがちにフォークを手に取り、蒸し鶏を小さく切って、口に運んだ。 その瞬間、ふ、とカイゼルの瞳が和らいだ。

 宴は、その後、何事もなかったかのように再開された。 だが、その場の空気は、明らかに変わっていた。皇帝の側近たちは、訳が分からず混乱している。アークライトの幹部たちは、リリアンの行動に驚きつつも、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。

 カイゼルは無表情のままで、リリアンに経済政策や、今後の産業振興に関する質問をしてきた。リリアンは、必死に頭をフル回転させて、その矢継ぎ早の質問に答えた。
「女性と、これほど充実した会話ができたのは、初めてだ」
 宴が終わると、カイゼルはそんな言葉を残して席を立った。
 リリアンは、ヘトヘトになりながら、カイゼルの残した皿を見た。
 カイゼルに新しく出した料理は、完食されていた。
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