宝坂邸の箱庭

1 雨の日の落としもの

 スカートの裾を指でつまんで、ひざ下十五センチ。
 それがわたしの中での目安になっている。
 短いスカートも、髪を染めるのも、誰かのまねをするのも、なんとなく苦手だった。
 きちんと枠の中に収まって暮らすこと、誰にも迷惑をかけないこと……それを積み重ねる中で時々楽しいことがあったら、たぶん幸せだと思う。
 けれど機会があったら謝りたいのだけど、わたしの家は少しだけ枠の外に出ていて、誰かに迷惑もかけていた。
 放課後、校門を出て交差点を渡り、左から二本目の通りを曲がると、いつものように黒塗りの車が停まっていた。
 運転席から降りてくるのは、大輪の花のように微笑む義兄――宝坂(ほうさか)惣一(そういち)
 白いシャツの袖をきちんとまくって、スーツの上着を腕にかけている姿は、どこか教師のように見えなくもない。
 けれど彼が持つ優しさの奥には、他人に見せてはいけない世界が隠れている。
 わたしの伯父が率いる組の後継ぎとして、義兄は誰よりも誇り高く、そして誰よりも家族思いだった。
「おかえり、莉珠(りず)。疲れたろ」
「迎えに来てくれなくていいのに」
「ちゃんと離れたところに停めてるだろ? ほんとは雨の日なんて莉珠が濡れるし、もっと近くにつけたいんだぞ。……テストはどうだった?」
 義兄は昨日の夜わたしが、「だめかもしれない」とぼやいていたのを見ている。
 わたしはかわいげのない口をへの字にして言う。
「……九十五点だった」
 義兄は嬉しそうに目を細め、運転席のドアを開けた。
「さすが俺の妹だな。父さんも喜ぶ」
「五点足りてない」
「莉珠に足りないのは身長だけだ」
 冗談めかして笑う兄の声は、いつだって柔らかい。
 でもその優しさの裏に、時々ふっと影が射すことがある。それに気づくたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
 伯父の家に引き取られてから、もう十年が経つ。
 誰よりも家族を大切にする人たちに囲まれて、わたしは何一つ不自由しなかった。
 ただひとつ——「悪いことをしちゃいけない」。それだけは、わたしの子どもの頃からの信条だった。
 義兄の背中に憧れながらも、その世界に手を伸ばしてはいけないと、自分に言い聞かせてきた。
「昨日は迎えに来られなくてごめんな」
 ……けれど義兄のいないほんの一日の間に、義兄に言えないことができてしまった。
 昨日は季節外れの大雨で、わたしは歩いて帰った。
 義兄が部下に言って車をよこすと言ってくれたのに、中途半端な自立心で断ってしまった。
 案の定駅は電車が止まっているせいで人があふれていて、中に入るのも少し怖かった。わたしは踵を返して、雨の中に歩き出した。
 わたしはあまり体が丈夫でなくて、体が冷えると喘息が出る。片手でハンカチを口に当てて、もう片方の手で傘を差して歩いたけれど、咳で目がにじんで思わず傘を手放してしまった。
 車にぶつかる、と目を閉じてしまったときだった。
 すんでのところで車は停まって、しりもちをついたわたしの前に誰かが出てきた。
 それは黒塗りの怖そうな車で、わたしは怒られると怯えていた。
「大丈夫?」
 でも傘を差しかけた青年の目は、琥珀のように落ち着いた理知の色があった。
 白いシャツと、黒いジャケット姿に、清潔で整った声だった。ただ、その瞳の奥には刃のような静けさがあった。
「……平気です。自分で立ち上がれます」
 頭を下げて答えながら、彼の指輪に胸がひやりとする。
 牡丹と琥珀。その印をわたしは知っていたからだった。
 ……清陀(せいだ)組の若頭——。
 義兄が時折名前を出しては、静かに眉を寄せる相手だ。
「ありがとうございました。車が傷ついたなら、賠償させていただきます」
 わたしが先に申し出ると、彼は面白がるように微笑んだ。
「大人しそうに見えて、強い子だね。……俺はそういう商売で暮らしていない。君に怪我をさせていないか見ただけだよ」
「それならよかった。では、失礼します」
 わたしは最小限のことだけ答えて、逃げるようにその場を立ち去った。咳をこらえるのに精いっぱいで、もうあまり長く体を冷やすわけにはいかなかったから。
 傘を持つのを覚えていただけで、その場にハンカチを落としてきたことに後で気づいた。
 ……でもどうしてか、彼の琥珀のような理知の目が、家に帰ってからも頭をよぎった。
「莉珠」
「……うん?」
 ふいに運転席の義兄がわたしに顔を近づけて、わたしは回想から戻って来る。
「昨日みたいな日は、無理しちゃだめだからな。俺が仕事中でもいいから、携帯で呼んでくれ」
 わたしははっとして、申し訳なさに顔を歪める。
 結局、昨日家に帰ってからわたしは一晩咳が止まらなくて、伯父にも義兄にもひどく心配をかけてしまった。
「うん……ごめん。気を付けるよ」
 あの若頭のことは、義兄には言えなかった。彼に抱いたささやかな憧れは、家族の深い愛情の前では飲み込んでしまおうと思った。
 義兄は前に目を戻して独り言のようにつぶやく。
「いい子。……ほんとは、学校にもやりたくないんだ」
 ただ兄の微笑の裏に潜む熱を、まだわたしは知らなかった。
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