宝坂邸の箱庭
2 微笑の熱
一昨日の雨の名残は、夜のうちに通り過ぎたらしい。
朝には空が洗い流されたようで、屋敷の庭はどこまでも澄んでいた。
縁側から見える白椿の葉に、雨粒がひとつぶだけ残っている。光が差すたび、宝石みたいにきらめいた。
困ったことに、わたしにも雨の名残はあった。昨夜、私は雨の日の喘息がぶり返して熱を出した。
今朝は熱も下がったのだけど、伯父が「今日は学校を休め」と言った。
寝間着のまま廊下を歩いていると、ちょうど義兄が仕事に出る準備をしているところだった。
シャツの襟を正して、腕時計の金具を留める。その仕草ひとつで、部屋の空気が引き締まる。
「まだ少し顔が赤いな。薬は飲んだか?」
「うん。熱はもうないよ」
「汗かいてる」
義兄はふと目を留めて、わたしの髪に手を伸ばした。
濡れた前髪を指先で払われた瞬間、わずかに首筋が熱くなる。
くすぐったいのとはちょっと違う。わたしが首をすくめると、義兄は笑わずに言った。
「おととい、無理した罰だな」
「そんな大げさな」
「大げさじゃない。おまえは少しでも冷えると喘息を出すだろ。……俺が迎えに行ってれば、こんなことにはならなかった」
言葉は優しいのに、触れる指が少し強引だ。
ほんの一瞬だけ、その掌の下で息が詰まる。
「……そう兄」
「ん?」
「昨日、駅でね。傘から手を離しちゃって」
わたしはその息苦しさから逃れるように、そのことを口に出していた。
誰かに助けられたことは伏せたまま、話を逸らすみたいに続けた。
「目の前を車が通って、怖かった。でもすぐ止まってくれたの」
義兄の表情がわずかに揺れた。優しさをたたえた笑顔だったのに、どこか冷たい色を秘めていた。
「どんな車だった?」
「え? よく見てない。すぐ行っちゃったし」
「ナンバーは?」
「うーん……覚えてない」
わたしが困り顔になると、義兄は笑ってわたしの頭を撫でた。
いつもぽんぽんわたしの頭に触れる義兄だけど、今日は何かが違っていた。
優しさというより、確かめるような触れ方だった。
「怖い思いをしたな。……いいか。莉珠は強い子だが、弱いところもあるんだ。俺の知らないところで危ない目に遭ってないか、心配なんだ」
「大丈夫だよ。そう兄から見たらちっちゃいだろうけど」
義兄は何気なく、ただふいに切実な声音で告げた。
「……ああ、小さい。だから、ちゃんと俺の言うことを聞いてくれ」
そう言って、義兄はわたしの肩を軽く抱いた。
その腕の重さは、いつもよりも長く離れなかった。
玄関の戸を閉めたあとも、義兄の指の温もりが肩に残っていた。
義兄はわたしが思うより、わたしが小さく見えているのかもしれない。
……それはもどかしいけど、でも、家族の愛情だものな。
わたしは兄の優しさに触れるように、きゅっと肩を抱いた。
夜、机に向かって宿題をしていると、部屋の戸が静かに叩かれた。
「入ってもいいか?」
義兄の声に、うん、いいよと答える。
現れた彼は仕事を終えたあとらしく、シャツの袖をまくっていた。
手に持っていたのは、一枚のハンカチだった。
「これ、おとといおまえが落としたものだろう?」
「え……」
見覚えのある白い布に、目が留まる。
青い水玉の模様で、刺繍の糸が少しほつれている。それは確かに、わたしが雨の中で失くしたものだった。
「どこで?」
「清陀から、今日うちに返されてきた」
静かな声のまま、義兄の瞳がわずかに細められる。
「莉珠。おととい、誰かに会ったな」
それは追及するような強さはなかったのに、心臓が跳ねた。
嘘をつこうとして、とっさに言葉が出なかった。
義兄の目は怒っているようではなく、ただ深く、底が見えなかった。
「違うの。助けてもらっただけで……」
「助けてもらった?」
義兄の声がかすかに低くなる。
「清陀の若頭にか?」
喉が詰まって来て、指先が冷えた。
言葉を失うわたしの沈黙を、兄はすべて理解していた。
……知られた。何を知られたくなかったのと自分に問う。
でもその答えが出る前に、義兄はわたしの肩を抱き寄せた。
いつものように優しく、けれど力が強すぎて苦しかった。
「怖かっただろう。……もうそんな連中と関わらなくていい」
背を叩く手は優しいのに、義兄が笑っていない気配は感じていた。
ごめんと癖のように謝ろうとして、義兄が求めているのがそんなことじゃないことにも気づく。
……もうしないよ。会わない。義兄がそう言わせたいのだとわかっていたけど、どうしてかその言葉は口に出なかった。
「な?」
体を離した義兄は、安心させるように微笑してみせた。
熱があったのは、私のはずなのに。……今日の義兄の微笑には、少し暗い熱があるように見えた。
朝には空が洗い流されたようで、屋敷の庭はどこまでも澄んでいた。
縁側から見える白椿の葉に、雨粒がひとつぶだけ残っている。光が差すたび、宝石みたいにきらめいた。
困ったことに、わたしにも雨の名残はあった。昨夜、私は雨の日の喘息がぶり返して熱を出した。
今朝は熱も下がったのだけど、伯父が「今日は学校を休め」と言った。
寝間着のまま廊下を歩いていると、ちょうど義兄が仕事に出る準備をしているところだった。
シャツの襟を正して、腕時計の金具を留める。その仕草ひとつで、部屋の空気が引き締まる。
「まだ少し顔が赤いな。薬は飲んだか?」
「うん。熱はもうないよ」
「汗かいてる」
義兄はふと目を留めて、わたしの髪に手を伸ばした。
濡れた前髪を指先で払われた瞬間、わずかに首筋が熱くなる。
くすぐったいのとはちょっと違う。わたしが首をすくめると、義兄は笑わずに言った。
「おととい、無理した罰だな」
「そんな大げさな」
「大げさじゃない。おまえは少しでも冷えると喘息を出すだろ。……俺が迎えに行ってれば、こんなことにはならなかった」
言葉は優しいのに、触れる指が少し強引だ。
ほんの一瞬だけ、その掌の下で息が詰まる。
「……そう兄」
「ん?」
「昨日、駅でね。傘から手を離しちゃって」
わたしはその息苦しさから逃れるように、そのことを口に出していた。
誰かに助けられたことは伏せたまま、話を逸らすみたいに続けた。
「目の前を車が通って、怖かった。でもすぐ止まってくれたの」
義兄の表情がわずかに揺れた。優しさをたたえた笑顔だったのに、どこか冷たい色を秘めていた。
「どんな車だった?」
「え? よく見てない。すぐ行っちゃったし」
「ナンバーは?」
「うーん……覚えてない」
わたしが困り顔になると、義兄は笑ってわたしの頭を撫でた。
いつもぽんぽんわたしの頭に触れる義兄だけど、今日は何かが違っていた。
優しさというより、確かめるような触れ方だった。
「怖い思いをしたな。……いいか。莉珠は強い子だが、弱いところもあるんだ。俺の知らないところで危ない目に遭ってないか、心配なんだ」
「大丈夫だよ。そう兄から見たらちっちゃいだろうけど」
義兄は何気なく、ただふいに切実な声音で告げた。
「……ああ、小さい。だから、ちゃんと俺の言うことを聞いてくれ」
そう言って、義兄はわたしの肩を軽く抱いた。
その腕の重さは、いつもよりも長く離れなかった。
玄関の戸を閉めたあとも、義兄の指の温もりが肩に残っていた。
義兄はわたしが思うより、わたしが小さく見えているのかもしれない。
……それはもどかしいけど、でも、家族の愛情だものな。
わたしは兄の優しさに触れるように、きゅっと肩を抱いた。
夜、机に向かって宿題をしていると、部屋の戸が静かに叩かれた。
「入ってもいいか?」
義兄の声に、うん、いいよと答える。
現れた彼は仕事を終えたあとらしく、シャツの袖をまくっていた。
手に持っていたのは、一枚のハンカチだった。
「これ、おとといおまえが落としたものだろう?」
「え……」
見覚えのある白い布に、目が留まる。
青い水玉の模様で、刺繍の糸が少しほつれている。それは確かに、わたしが雨の中で失くしたものだった。
「どこで?」
「清陀から、今日うちに返されてきた」
静かな声のまま、義兄の瞳がわずかに細められる。
「莉珠。おととい、誰かに会ったな」
それは追及するような強さはなかったのに、心臓が跳ねた。
嘘をつこうとして、とっさに言葉が出なかった。
義兄の目は怒っているようではなく、ただ深く、底が見えなかった。
「違うの。助けてもらっただけで……」
「助けてもらった?」
義兄の声がかすかに低くなる。
「清陀の若頭にか?」
喉が詰まって来て、指先が冷えた。
言葉を失うわたしの沈黙を、兄はすべて理解していた。
……知られた。何を知られたくなかったのと自分に問う。
でもその答えが出る前に、義兄はわたしの肩を抱き寄せた。
いつものように優しく、けれど力が強すぎて苦しかった。
「怖かっただろう。……もうそんな連中と関わらなくていい」
背を叩く手は優しいのに、義兄が笑っていない気配は感じていた。
ごめんと癖のように謝ろうとして、義兄が求めているのがそんなことじゃないことにも気づく。
……もうしないよ。会わない。義兄がそう言わせたいのだとわかっていたけど、どうしてかその言葉は口に出なかった。
「な?」
体を離した義兄は、安心させるように微笑してみせた。
熱があったのは、私のはずなのに。……今日の義兄の微笑には、少し暗い熱があるように見えた。