宝坂邸の箱庭

21 喪失の愛

 療養施設で目覚めてから、二日が経った。
 体が軽くなって、朝にはもう一人で歩けるようになっていた。
 その日は窓から見ていた庭園がふと気になって、看護師に頼んで散歩を許してもらった。
 庭に出ると、風はやわらかくて、陽射しがやさしかった。
 どこからか鳥の声がして、空気には花の匂いが香る――はずだった。
 でも、その匂いはどこか甘すぎて、わたしの胸に重く残った。
 簾さんは毎朝、出勤前にここへ顔を出してくれる。
 いつもと変わらない優しい声で、「体調はどう?」とたずねてくれる。
 その声を聞くと安心する自分がいるのに、ひとりになると心の奥にぽっかりと穴が空いたような気がした。
 施設のひとたちも親切で、気分もずいぶんよくなって、気に掛けてくれる兄もいるのに……なぜか寂しかった。
 花壇の前で足を止めたとき、ふと気づいた。
 咲き誇る薔薇も、チューリップも、ユリも……どれも、少しも枯れていない。
 どの花びらも完璧で、ひとつとして傷んでいない。触れると、わずかに冷たかった。
「これ、ぜんぶ……人工の花?」
 思わずつぶやくと、隣で立ち止まった女性が朗らかに笑った。
 小柄な壮年の女性で、かわいらしい雰囲気をまとうひとだった。
 淡いピンクのワンピースを着ていて、髪には少しだけ白髪が混じるけれど、柔らかそうな癖毛の髪はつやがある。
 ただその表情は子どものように幼く、無邪気な瞳をわたしに向けた。
「そうねぇ。でも、優しい光景だわ。生きてる花は、冷たい冬の風に耐えられないもの」
 そう言った女性の目が、何かを見つけたようにぱっと輝いた。
「……さっちゃん!」
 声を上げて、女性はたたっと駆け出した。
 わたしの目の前を通り過ぎて、散歩道の先へとまっすぐに向かう。
 その先には、小学生くらいの女の子が立っていた。
 長い髪は柔らかそうな癖毛で、白い帽子をかぶっている。
「ひなこさん、ここにいたの」
 女の子は小学生にしては丁寧な口調で、労わるように言う。
「そんな格好じゃ、体が冷えちゃう。一緒に戻ろう?」
 それはまるで大人が子どもを気遣うような声音だった。
「さっちゃんと一緒なら、さむくないの」
 ひなこさんと呼ばれた女性はきょとんとしたけれど、笑いながらその子を抱きしめた。
 ――お母さんと娘。
 そう見えるのに、逆のようでもある。
 その不思議なやり取りが、胸に残った。
 けれど、女の子がそっと会釈をして歩き去ったから、わたしはそれ以上声をかけることはできなかった。


 午後、廊下を歩いていたときのことだった。
 木造りの整然とした廊下の角を曲がると、藍紀先生がいた。
 白衣姿の彼が、小さな女の子を抱き上げてあやしている。
 それはあの庭で見た「さっちゃん」だった。
 女の子は藍紀先生の胸に顔を埋めて、肩を震わせて泣いていた。
「お母さん、もうじきわたしのことも忘れちゃうの……?」
 その声はあまりにも幼くて、聞く者の胸を締めつけた。
 藍紀先生は、悲しそうに女の子の髪を撫でて言う。
「さっちゃん、かなしいね。でもね、ひなこさんの心は今とても穏やかなんだよ」
「……おだやか」
「うん。悲しいことを忘れて、ようやく笑って生きていけるようになったんだ。……だからね、さっちゃん。お兄ちゃんがお母さんの分まで、いっぱいいっぱい、さっちゃんのことを大事にするから。お兄ちゃんがさっちゃんの全部になるから。だから一緒に、ひなこさんを見守ってあげよう?」
 女の子は涙を拭いて、こくんとうなずいた。
 その顔はまだ幼いのに、どこか達観したようでもあった。
 藍紀先生はそっと彼女を抱き上げて、廊下の向こうへ歩いて行った。
 その背中を見送ったわたしは、きゅっと胸が絞られるような思いでしばらく立ちすくんでいた。



 夕方になって、医務室の前で藍紀先生と会った。
 彼はいつものように柔らかい笑みを浮かべてたずねる。
「体調はどうですか、莉珠さん。今日は少し歩きすぎたでしょう」
「平気です。もうだいぶ体は……」
 言いかけて、胸の奥の違和感を隠せずにいた。
 思い切って昼間のことを尋ねようとしたけれど、声が出なかった。
 藍紀先生は、そんなわたしの迷いを知っているように静かに言った。
「家族に忘れられるのは、誰でもつらいものですね」
 それは女の子が見せた悲しみとは違う、大事な人の手を自ら離したような優しさをまとっていた。
「でもね――家族が笑っていてくれるなら、思い出してもらえなくてもいい。……莉珠さんのお兄さんも、きっとそう思っていますよ」
 その言葉に、胸の奥がまたきゅっと痛んだ。
 わたしは、何も言えずにうつむいた。
 藍紀先生は静かに背を向け、去って行った。
 残された廊下の窓の向こうには、夕暮れの庭園が広がっている。
 薔薇の花は変わらず美しく、風に揺れることもなく、ただ完璧だった。
 ――こんなにも穏やかなのに、どうして涙が出そうになるんだろう。
 わたしは胸に手を当てて、もう一度、静かな庭を見つめた。
 その人工の薔薇の群れの中に、ひとつだけ、光を失いかけた花があった。
 それは夜の残滓のように、わたしの心に焼き付いて離れなかった。
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