宝坂邸の箱庭

22 開く門扉

 退院の日、空は薄い鈍色の光で包まれていた。
 晴れとはいえない空だけれど、白い雲の切れ間から陽が差して雨上がりの街を照らす。
 食事や睡眠は十分にとれていて、階段も上れるくらいに回復していた。
 けれど心の中には、形のない空洞のようなものが残っていた。
 大切なものをどこかに置き忘れたような、そんな感覚だった。
 迎えに来てくれた簾さんは、洗いざらしの白いシャツに濃紺のコートを羽織っていた。
「もうすっかり元気そうだね」
「はい。お世話になりました」
 口にした言葉が少しよそよそしく聞こえて、自分でも戸惑った。
 でも簾さんは、気にした様子もなく笑ってくれた。
「これからは家でゆっくりすればいい。……莉珠の家なんだからさ」
 簾さんと一緒に車に乗って、療養施設を離れた。
 ガラス越しに見える街は育ったところのはずなのに、知らない景色のようだった。
 胸の奥に痛みが走る。
 失くしたものが何かわからないのに、それは大事なものだった気がしていた。
 簾さんの住むマンションは、海沿いの静かな住宅街にあった。
 エントランスには大きな観葉植物が飾られ、白い廊下を抜けて最上階へと上がる。
 ドアを開けた瞬間、ふわりと柔らかい空気が流れ込んできた。
 簾さんのまとう香りに似ているかもしれない。それは洗濯したばかりの布の匂いと、ほんの少しの柑橘の香りだった。
「ここが莉珠の部屋だよ」
 簾さんがドアを開けてくれて、わたしはおずおずと足を踏み入れた。
 東向きの窓からは朝陽の残光が差し込んでいた。
 カーテンには花の透かし模様があって、光が床に淡い花影を落としている。
 棚の上には小さな干支の置物が並び、どれも埃ひとつなく整えられていた。
 それらの思い出は記憶にないのに、心の奥がじんと温かくなった。
「……なんだか落ち着きます」
「去年の春に引っ越したとき、一緒に選びに行ったものね」
 思い出せないことよりも、簾さんが優しく話す声のほうが心に響いた。彼の隣にいるだけで安心する自分がいた。
 その日から、簾さんとのふたり暮らしが始まった。
 朝食は簾さんが作ってくれて、休日は一緒に紅茶を飲んだ。
 けんかもちょっとはしたけど、すぐにどちらともなく謝ることができて、夜には他愛ない話をした。
 まるで呼吸でもするように、特別なことは何もなく、それが幸せだと思う日々が流れていった。



 学校のことを思い出したのは、冬休みに入る前のことだった。
「私……学校を休んでしまってるんですよね」
 そう言うと、簾さんは微笑んで言った。
「診断書は出しておいたから大丈夫。冬休みも始まるし、今は休むことを考えなさい」
「あ、ありがとうございます」
「受験願書はもう出した? どこの大学を受けるの?」
 その答えは、考えるより先に口をついて出た。
「薬学の研究学科のある国立大学を……」
「薬学?」
「はい。手伝いをしたくて」
「誰の?」
 そう訊かれて、言葉に詰まった。
 考えてみれば両親もおらず、家業といえるものもないのに、誰の手伝いをしたかったのだろう?
 わたしの困り顔を見て、簾さんは優しく言った。
「もしかして、俺の手伝いをしてくれるの? それならうれしい」
「ごめんなさい。わたしは本当の兄妹でもないのに」
「家族だよ」
 簾さんはまっすぐわたしを見てそう言ってくれた。
 家族――その言葉がわたしの中にじわりと染みわたっていく。
 そうだ、家族なんだ……。家族は、一緒にいてもいいんだ。
 そう思うと、しっかり勉強して、いずれ簾さんの仕事の手伝いをしたいと願った。
 それからの日々は早かった。
 願書を出し、一生懸命勉強しているうちに瞬く間に試験日が近づいていく。
 簾さんが勉強の合間に差し入れを作ってくれたり、一緒にクリスマスチキンを食べたりして、真冬だというのにあまり寒さを感じなかった。
 それでもときどき、窓の外の空を見上げて、何かが足りないような気持ちになった。
 共通テストの日は、冷たい風が吹いていた。
 手がかじかんで、鉛筆を握るのがつらかったけれど、結果を見たとき少しだけ笑えた。
 学校に報告に行くために、久しぶりにひとりで外出した。



 学校からの帰りは、通い慣れていたはずの道だった。
 けれど歩いているうちに方向を間違えたのか、知らない通りに出ていた。
 足元には石畳と、今は枯れたイチョウ並木が両脇に続く。
 午後の残光が、どこか懐かしい色を帯びているように感じた。
 角を曲がると、古い日本家屋の屋敷が現れた。
 黒い格子戸と、深い瓦屋根の、大きな鳥が翼を広げたように立派な建物だ。
 門の前には、古びた石灯籠が立っている。
 その門柱の表札に、くっきりと刻まれた文字が目に入った。
 ――宝坂。
 それを見た瞬間、胸の奥が突然熱くなって、息が詰まった。
 この名前を、知っている。
 でも、どうしてなのかわからない。
 目の奥に、光と闇が交じりあうような感覚が走った。
 懐かしさと、哀しさと、どうしようもない切なさに打たれる。
 涙が出そうだった、そのときだった。
「……莉珠?」
 静かな声が、背後から響いた。
 振り向いた瞬間、空気が凍る。
 そこに立っていたのは、以前、あの病院の廊下で見た……夜から抜け出てきたような男の人だった。
 力強い眉の下、黒々とした瞳が驚きを映す。
 わたしの唇から、かすれた声がこぼれた。
「従兄の……」
 ……惣一さん。
 そう名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
 目の前が一瞬真っ白に染まって、耳鳴りがした。
 惣一さんも雷に打たれたように立ち竦んだけれど、やがてぎこちなく目を和らげて言う。
「……寄っていくか?」
 とっさにわたしの心を叩いたのは、恐れだった。以前このひとに会った時、指先から黒い泥に染まる幻覚を見た。このひとに近づいてはいけないと、意識の膜の向こうで誰かがささやく。
 でも胸を打つくらいに、引っ張られる思いがしたのも本当だった。心の奥で一生懸命堰き止められている感情があって、その名前を知りたいと思った。
「迷惑では……ないですか?」
 わたしが恐る恐る問いかけると、惣一さんはゆっくりと首を横に振る。
「寄っていってほしい。頼みたいくらいだ」
 どうしてと思った。でもその疑問を口にする前に、惣一さんの願うようなまなざしと目が合う。
 体が勝手に震えだしそうなのに、わたしは断れなかった。
 わたしはこくりとうなずいて、宝坂の門をくぐった。
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