宝坂邸の箱庭

20 午後の影

 午後の陽射しが、窓の外の薔薇を淡く透かしていた。
 目覚めたときの静かな朝は遠ざかり、空はすっかり明るく澄んでいる。
 看護師が差し出した白い服に着替えて、髪を整えてもらっていると、扉が控えめにノックされた。
「莉珠さん。お兄さんがお見舞いにきてくれましたよ」
 その言葉に胸が跳ねた。
 ――お兄さん。わたしの、家族。
 けれど彼と対面した瞬間、わたしは一瞬見覚えのない人のように思ってしまった。
 彼は白いシャツの袖を軽く折り、短い黒髪をさっぱりと切りそろえていた。
 でも光の加減で琥珀色にも見える淡い瞳は、懐かしかった。
 その穏やかな微笑みは優しげで、わたしにそっと呼びかけた。
「顔色が戻って良かった、莉珠」
 青年はそう言って、わたしに歩み寄った。
「清陀簾だよ。……莉珠は、にいさんと呼んでいた」
 わたしが心で名を繰り返すと、胸で何かがきしんだ。
 柔らかい声が心の中に響く。
 ――この人は家族。
 そのささやきは、まるで自分の記憶がそう教えてくれるようだった。
「簾でいいよ。すぐには元のようにはなれないだろう」
 簾さんは穏やかに微笑み、窓辺の椅子を引いて腰を下ろした。
「莉珠は小さい頃、両親を亡くしてね。いろんな親戚の家を転々としてた。去年の春に、ようやくうちに来たんだ」
「……そうだったんですか」
 聞きながら、遠い記憶がかすかに揺らめく。
 春に、桜の下を歩いていた気がする。その隣には、確かに誰かがいた。
 でもその横顔は、霞のようにぼやけていた。
「高校に入ったばかりで、不安そうだった莉珠が少し笑うようになって、俺は嬉しかったよ」
 簾さんの声には、一回り小さな子への労わりがにじんでいた。
 わたしはというと、ただ純粋に妹が兄に甘えるようにはいかなかった。
 もう高校生だから、たぶん突然現れた異性の親類には戸惑っただろう。この距離の近さが、どこかくすぐったかった。
 まるで家族でありながら、少しだけ違うような……そんな感覚だった。
「また一緒に暮らそう。落ち着いたら、あの部屋に戻っておいで」
「あの部屋?」
「覚えてないか。莉珠の部屋のカーテンは薄紫で、朝になると光が花の形に差し込むんだ」
 言葉を聞くうちに、胸の奥が温かくなっていく。
 懐かしさと同時に、何かが蘇って来る感覚が少し、怖かった。
「……にい、さん」
 そう呼びかけようとした瞬間――頭の中が、押しつぶされるように痛んだ。
 視界が白く染まる。呼吸が詰まる。
 喉の奥が焼けるようで、言葉が出ない。
 ただ胸を押さえて、震える手を握りしめるしかなかった。
「莉珠!」
 簾さんが駆け寄って、わたしの肩を支えた。
 彼の手が背に触れると、不思議と痛みが遠のいていく。
「無理しなくていい。……何も焦らなくていいよ。俺はずっと待ってる」
 その声はあたたかく、耳に心地よく響いた。
 簾さんに勧められて、ベッドに横になる。少しまぶたを閉じただけで、意識がゆっくり遠のいていく。
 まぶたの裏に浮かぶのは、誰かの背中だった。
 ぐずるわたしをおぶって、そっと揺らしてくれた人。
 ――わたし、もっと小さい。このひと、簾さんじゃ、ない……?
 その背中は荒削りで、強く、やさしかった。
 けれど、その名を思い出す前に眠りに落ちた。


 どれくらい眠っていたのかはっきりとはわからない。
 遠くで人の声がして、まぶたを開いた。
 廊下の方で、誰かと誰かが話しているのが聞こえた。
 小さく扉を開けて、そっと外に出た。
 声の方に歩み寄ると、窓辺の陰に簾さんが立っているのが見えた。
 その向かいで簾さんと話している男性がいた。
 黒い服をまとい、夜の気配をそのまま背負ったような人だった。
 彼がこちらに気づいた瞬間、空気が震えた。
 ――見てはいけない。
 頭の奥が警鐘を鳴らした。けれど、目が離せなかった。
 その人の存在は、胸の奥を強く掴んで離さなかった。
 知らないはずなのに、涙が出そうになる。反射のように手を伸ばしていた。
 その瞬間、暗い光のようなものが目の前に閃いた。
 ……指先から血のような泥がにじみ出る。
 ぬるりとしたそれが掌を包み、腕に広がっていく。
 熱くて、汚くて、身体の中にまで入り込んでくるような感覚。
「……いやぁ!」
 悲鳴がこぼれて、膝が崩れた。
 背中を誰かが抱きとめる。
 のろのろと顔を上げると、簾さんだった。
 彼は静かに、私の顔を胸に抱きとめながらささやいた。
「もう大丈夫。……それは夢だよ」
 簾さんの胸に頬を埋めていると、恐怖はゆるやかに遠のいていった。
 でもあの夜のような男性は、その場で立ちすくんでいた。
 その表情は苦悩に満ちていて、深い絶望があった。
 彼は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局、何も言わずに背を向けた。
 足音が遠ざかっていく。
「あの人は……?」
 震える声で尋ねると、簾さんはわたしを抱いたまま答えた。
「莉珠の従兄だよ。心配して、わざわざ来てくれたんだ」
 従兄……。
 その言葉を聞いても、体の震えは止まらなかった。
 恐怖なのか、懐かしさなのか、自分でもわからない。
 ふと窓の外の薔薇が視界に映った。白い花びらが、一枚だけ黒く滲んでいた。
 それを見た瞬間どうしようもなく寒くなって、私は簾さんの胸に、ぎゅっとしがみついた。
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