宝坂邸の箱庭

23 心の雪景色

 門をくぐった瞬間、自分が子どもに還ったような不思議な感覚がした。
 そこは見知らぬ家だったのに、どこか懐かしく、胸の奥が絞られる。
 雨上がりの木が揺れて、さぁっと風が流れていた。
 惣一さんは少し前を歩き、玄関の戸を静かに開けた。
 中は驚くほど広かった。磨き上げられた木の廊下といい、欄間に施された精巧な彫刻といい、家の主の威厳が漂うようだった。
 でも優しさも感じられるのは、子どもを守っているような気配がするからだろうか。
「寒くなかったか」
 そんなことを考えていて、惣一さんの声に我に返る。
 振り向くと、彼は玄関脇の床暖房の電源を入れていた。
 やはりお年寄りか、子どもがこの家に住んでいるのだろう。じわりとした温もりが足元から伝わるのに、時間はそれほどかからなかった。
 まだ明るいのに、惣一さんは玄関から点々と灯りをつけていく。それも、子どもが寂しくないように、無意識に手が動いているように見えた。
 わたしはふと惣一さんの顔色が気に掛かった。精悍な目鼻立ちの人だけど、その頬にはやつれたような影があった。
「わたしは大丈夫です。でも、惣一さんが寒いなら」
 そう答えると、彼は安堵したように微笑んだ。
「莉珠が寒くないならいいんだ。……こっちへ」
 案内された客間は、陽の光を取り込む大きな窓のある部屋だった。
 畳の上には淡い灰色の絨毯が敷かれ、奥の壁には古い花の絵がかかっている。
 その絵を見たとき、胸に淡い風が入り込むような心地がした。
 どこかで見たことがあるけど、どことは思い出せなかった。
「座って待っててくれ。茶を淹れる」
「いえ、そんな……」
「気を遣ってるわけじゃない。……ここは元々、莉珠の家だ」
 わたしはたぶん不思議そうな顔をしていたと思う。
 でも惣一さんはそれ以上は言葉を続けなくて、少し寂しそうな顔をして台所に入って行った。
 しばらくして、盆に急須をのせて戻ってくる。
 湯気の立つ湯呑を差し出されて、わたしは両手で受け取った。
 ほうじ茶の香りがやさしく鼻をくすぐる。
 香ばしさが懐かしくて……冬になるといつも、これを飲んでいたなと思った。
「お茶は、その家の味がありますね。おいしいです」
 そう言うと、惣一さんの瞳がわずかに揺れた。
「……そうだな」
 沈黙が落ちて、わたしは惣一さんの横顔に目を取られた。
 従兄だから、子どもの頃に遊んでもらったりしたのだろうか。それなら思い出がありそうな気がするのに、頭の中を探しても情景が浮かんでこない。
 でもこうやって隣に座って安らぎを感じるのだから、近しい人だったと思うのに。
 惣一さんはただ静かに座っている。
 何かを言いたそうで、けれど口を閉ざしていた。
 わたしは迷った末、ぽつりと問いかける。
「……わたし、惣一さんのことも忘れているんでしょうか」
 惣一さんはしばらく考えるように視線を落とした。
 そして、首を横に振って静かに答える。
「ああ。でも、思い出さなくていい」
 その言葉に、わたしは息をのんだ。
「どうして?」
「たぶん……今、莉珠は幸せなんじゃないか?」
 そう問い返した彼の声は、なぜかとても優しかった。
「入院していた頃より、ずいぶん顔色がよくなった」
 湯気がゆらゆらと立ちのぼり、ふたりの間に小さな霧のような壁をつくる。
「……俺も、莉珠が元気でいてくれれば幸せだ」
 そこまで言って、惣一さんは言葉を途切らせた。
 その沈黙の中に、何か大きな悲しみがある気がした。
 けれど、それを追いかける勇気が出なかった。
 やがて障子越しに夕暮れの残光が薄く差し込む。
 その光の中で、惣一さんがわずかに笑った。
「莉珠は、昔から寒がりだった」
「そうだった気がします」
「でも雪が降ると、とてもはしゃいで。……かわいかった。胸がつぶれるくらいに」
 その言葉の響きに、胸が波打った。
 わたしの知らないわたしが、そこにいるようだった。
 はしゃいでいる自分を見られたみたいに、思わず恥ずかしくなってうつむいた。
 惣一さんはそれを見て、ただやさしく笑った。
「また笑うところを見せてほしい。……そうしたら、昔のことなど何も思い出せなくたって構わないから」
 障子の向こうには、薄く雪の気配があった。
 白い光が降りて、庭の石灯籠を包んでいく。
 ……たぶんわたし、惣一さんと仲がよかったような気がする。
 だったら、惣一さんのこと、思い出せたらいいのにと願う。
 でも心の中は一面の雪景色のように何も見えなくて、その白さが少し不自然なようにも感じていた。
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