宝坂邸の箱庭
エピローグ 春の宝坂邸にて
春の光が、宝坂邸の庭を淡く照らしていた。
枝いっぱいに花をつけた桜が、風に揺れながらこぼれるように舞っている。
去年、この庭で桜を見ることはできなかった。
あの頃のわたしは、記憶も体調も揺らいだまま、世界の輪郭すらぼやけていた。
でも今は、すこしずつ息が吸える。
記憶の全部を思い出したわけではない。胸が痛む日もあるけれど、ちゃんと前へ進める。
深呼吸をひとつして、わたしは小さく笑った。
「……きれい」
この春で、一年越しの卒業になった。
本当なら去年受けるはずだった大学入試も、体調が戻るまで待つことになった。
けれど――あの闇の中から抜け出して、この庭に帰ってこられたことのほうが、何倍も大きかった。
制服の代わりに、今日は大学の入学手続きで着るための淡いワンピース姿だ。
袖口を整えていると、後ろからゆっくりとした足音が聞こえた。
「……準備はできたか、莉珠」
振り返ると、惣一さんが軽くコートを肩にかけて立っていた。
いつもと同じように無骨で、不器用な言い方だったけれど――どこかほっとする。
「緊張してるか?」
「少しだけ。でも……楽しみです」
そう言うと、惣一さんはふっと目を細めた。
どこか照れたようで、でも誇らしげでもあった。
「……一年、よく頑張ったな」
その言葉だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
惣一さんは庭の桜に視線を向け、少し肩をすくめた。
「いいか、莉珠」
「はい?」
「……あんまり遠くまで行くんじゃないぞ。悪い子にしてたら、つかまえに行くからな」
冗談のように言われたけど、わたしはほんの少し耳が赤くなった。
わざと悪い子にしていたいような、そんな甘えも湧きあがる。
でも迷ったけど、結局思ったとおりのことを言った。
「悪いことは、しちゃいけないです」
桜の花びらがふわりと二人の間を舞い落ちた。
その柔らかな光景を胸に刻む。
惣一さんがいなかったら、ここに立つことさえできなかった。
そう思うと、言葉が自然と口をついて出た。
「……行ってきます、そう兄」
過去の自分が使っていたという、その呼び方を口にする。
その声には、もう震えはなかった。
惣一さんは静かにうなずき、わたしの背を軽く押した。
「行け。……どこにいても、味方だ」
春の風が、やわらかく髪を揺らす。
宝坂邸の門へ向かって歩きながらわたしは思った。
あの冬を越えたから、今日がある。
あの痛みを知ったから、今の光がこんなにあったかい。
……そして、どんな形でも、惣一さんはやっぱりわたしの「家族」だ。
桜の花びらが舞い散るなか、新しい季節の始まりへと、わたしは一歩を踏み出した。
枝いっぱいに花をつけた桜が、風に揺れながらこぼれるように舞っている。
去年、この庭で桜を見ることはできなかった。
あの頃のわたしは、記憶も体調も揺らいだまま、世界の輪郭すらぼやけていた。
でも今は、すこしずつ息が吸える。
記憶の全部を思い出したわけではない。胸が痛む日もあるけれど、ちゃんと前へ進める。
深呼吸をひとつして、わたしは小さく笑った。
「……きれい」
この春で、一年越しの卒業になった。
本当なら去年受けるはずだった大学入試も、体調が戻るまで待つことになった。
けれど――あの闇の中から抜け出して、この庭に帰ってこられたことのほうが、何倍も大きかった。
制服の代わりに、今日は大学の入学手続きで着るための淡いワンピース姿だ。
袖口を整えていると、後ろからゆっくりとした足音が聞こえた。
「……準備はできたか、莉珠」
振り返ると、惣一さんが軽くコートを肩にかけて立っていた。
いつもと同じように無骨で、不器用な言い方だったけれど――どこかほっとする。
「緊張してるか?」
「少しだけ。でも……楽しみです」
そう言うと、惣一さんはふっと目を細めた。
どこか照れたようで、でも誇らしげでもあった。
「……一年、よく頑張ったな」
その言葉だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
惣一さんは庭の桜に視線を向け、少し肩をすくめた。
「いいか、莉珠」
「はい?」
「……あんまり遠くまで行くんじゃないぞ。悪い子にしてたら、つかまえに行くからな」
冗談のように言われたけど、わたしはほんの少し耳が赤くなった。
わざと悪い子にしていたいような、そんな甘えも湧きあがる。
でも迷ったけど、結局思ったとおりのことを言った。
「悪いことは、しちゃいけないです」
桜の花びらがふわりと二人の間を舞い落ちた。
その柔らかな光景を胸に刻む。
惣一さんがいなかったら、ここに立つことさえできなかった。
そう思うと、言葉が自然と口をついて出た。
「……行ってきます、そう兄」
過去の自分が使っていたという、その呼び方を口にする。
その声には、もう震えはなかった。
惣一さんは静かにうなずき、わたしの背を軽く押した。
「行け。……どこにいても、味方だ」
春の風が、やわらかく髪を揺らす。
宝坂邸の門へ向かって歩きながらわたしは思った。
あの冬を越えたから、今日がある。
あの痛みを知ったから、今の光がこんなにあったかい。
……そして、どんな形でも、惣一さんはやっぱりわたしの「家族」だ。
桜の花びらが舞い散るなか、新しい季節の始まりへと、わたしは一歩を踏み出した。

