宝坂邸の箱庭
30 今はこの手に包んで
病室のドアが開いた瞬間、室内の空気がわずかに揺れた。
薄い灯りの下で、ベッドに横たわる莉珠が、苦しげに胸元を押さえながら上体を起こそうとしていた。
「だれ……簾さん……?」
呼ばれたのは、俺の名前ではなかった。
胸の奥で、短く鋭い痛みが走る。
その声があまりにも弱くて、必死で、簾に縋っていることが胸を切り裂くように伝わってくる。
ベッドの向かい側、棚を触っていた簾が、こちらを振り返った。
その顔はまるで邪魔者でも見たような、静かすぎる微笑を浮かべていた。
「……来たんですね、宝坂さん」
声は柔らかく、丁寧で、それでいて底に濁った光があった。
俺はまっすぐ簾を見据える。
「莉珠を連れて帰る」
低く、無理やり抑えながらの声が喉から出た。
簾は莉珠のそばに歩み寄ると、子どもでもあしらうように、わざとゆっくりとベッドの端に腰を下ろした。
「心配する気持ちはわかりますけど……。彼女は今、とても不安定なんです。刺激しないでいただけますか?」
俺は一歩近づいて言葉を放つ。
「莉珠にとって害悪はおまえだ。薬に手を加えて、弱らせた」
簾の目が一瞬だけ揺れて、莉珠を見た。
莉珠は意識があいまいなのか、俺が何を言ったのかよくわからないという顔をしていた。
簾はそんな莉珠を確かめて、すぐに薄く笑みを浮かべる。
「ずいぶんな言葉ですね。俺はずっと莉珠を看病してきました。あなたとは違って」
「しらばっくれるな」
「自分のしたことがわかってないのはあなたでしょう? だって、惣一さん――あなたは、莉珠を手放したでしょう?」
その一言で、胸の奥が凍りつく。
あの日、莉珠が自分を穢れていると言って傷つけた夜のことを思い出す。
抱きしめたくても、できなかった。彼女を壊さないために手を離した。
……あの選択を、この男は嗤っているのだ。
「莉珠に必要なのは、ずっとそばにいてくれる存在だ。俺はそれに応えて、莉珠は俺を選んでくれた」
「依存させて、無理やり取り付けた婚約にどんな意味がある」
低く言うと、簾は笑ったまま首を傾ける。
「一度も迎えに来なかった人が何を言う? 弱って壊れそうな子を、手放したままにして」
息を呑む気配が、ベッドから聞こえた。
莉珠が、俺と簾の顔を交互に見ている。
恐怖と混乱が混じった、あの夜の泣き腫らした目に似ていた。
「……な、に……やめ、簾さん、こわいよ……!」
莉珠は簾に手を伸ばして、簾はその手をからめとる。
「大丈夫だよ、莉珠。こわくない。俺がこの人を追い払ってあげるから」
俺は一度息を吐き、莉珠を見た。
「……俺を憎んでもいい。でも、自分のために思い出してくれ。……莉珠、いつからおまえの喘息はひどくなった?」
「ぜん、そく……?」
「療養施設から退院して、薬を増やさなかったか? 清陀記念病院で呼吸器科にかかってから、悪化したんじゃないか?」
それだけ言って、簾へ視線を戻す。
「簾。おまえのしてきたことは、すべて調べがついている」
簾の笑みにじわりとした恐れがにじむ。
「薬に混ぜた成分、タイミング。担当医の証言もある。……おまえが、莉珠の薬を入れ替えていた」
「……そんな証拠はない」
「彼に事実を伝えたのは私です。清陀」
戸口から静かな声がかかって、簾の表情が豹変した。
藍紀は、宗家の後継ぎとして冷たい秩序をまとってそこに立っていた。
「私は医師です。患者を治すのが治療。「好きな人間を弱らせて縛る」ような行為を許すわけにはいかない」
「く……!」
簾の目が濁り、ふいに感情があふれた。
「じゃあ聞かせてくださいよ、惣一さん。あなただって莉珠に好意を持っていただろう。……兄なのに、触れようとしたんじゃないか?」
莉珠が凍り付いたように息を止めた。
簾の言葉は、狂気じみた正確さだった。純度の高い劣等感と渇望で燃えていた。
莉珠はたぶん記憶の狭間に感じるところがあったのだろう。がくがくと震える莉珠に、俺は胸が痛んだ。
簾は、幼い子どもが泣き叫ぶように続けた。
「何度も思ったんですよ……俺じゃダメなのか。惣一と俺の何が違う? だから繰り返し莉珠に手を差し伸べた。けどどれだけ優しくしても……莉珠はあなたを家族だと言うのをやめなかった……!」
簾の声が震えて、ぐっと低くなる。
「だから……だから弱ってくれれば……。俺しか寄りかかれないくらい弱ってくれれば、俺を見てくれると思った……!」
莉珠がひぐっと息を呑む気配がした。その手はまだ簾をつかんでいる。
俺は簾をまっすぐに見て言った。
「簾。おまえが莉珠を愛していたのはわかった」
簾がはっとこちらを見る。
俺は燃えるような意思をこめてにらみつける。
「——だから、莉珠の身体を壊すのか。それで莉珠は、笑えるようになるのか?」
簾は唇を震わせた。
肩が沈み、目の光が消えていく。
「……違う……元気になったら……」
「莉珠の心が不安定になるたび、莉珠を傷つける? ……そんなのは愛じゃない。ただの支配だ」
しばらくの沈黙が流れた。
やがて椅子がわずかに軋み、簾は苦しそうに莉珠を振り向いた。莉珠はまだ震えたまま、簾をみつめる。
「簾さん……?」
「子どもの頃から、ずっと憧れてた。……君は宝坂邸の真珠みたいに、凛として、きれいだった」
簾の目から、つうっと涙が落ちる。
「もしも、と考えた。もしも俺が君と兄妹のように育ったら。俺も極道、惣一も極道。大して変わりはないだろう? 真綿で包むみたいに育てて、やがては家族以上に親しんで……そんな、夢を見た」
簾はしぼんだ声で話して、ふいに首を横に振る。
「でも惣一は君を傷つけないために、手を離した。俺には一生できないだろうと思っていたけど……俺だって、君に笑ってほしいから」
簾はゆっくりと莉珠の手を離して、立ち上がる。
そして戸口に歩み寄る直前、莉珠が声を上げる。
「……簾さん、は」
莉珠は肩で息をしながら、懸命に言う。
「わたしの……もう一人の、兄です。そばにいてくれて……ありがとう」
その言葉にくしゃりと顔を歪めて、簾は藍紀と共に病室から出ていった。
扉が閉まった瞬間、俺は莉珠をみつめていた。
ゆっくりと歩み寄って、ベッド脇に膝をつき、そっと手を握る。
「……遅くなって、悪かった」
揺れる莉珠の瞳に、俺の姿が小さく映った。
「思い出せなくたって構わない。離れていても思っている。けど、今は少しわがまま言っていいか」
そう口にした瞬間、ずっと凍り付いていた時間がようやく動き出した気がした。
「俺と帰ろう、莉珠」
小さく頷いた彼女の指を、二度と離したくないと願いながら。
俺はもう一度、これ以上なく大切なその手を包んで、泣き笑いのように笑った。
薄い灯りの下で、ベッドに横たわる莉珠が、苦しげに胸元を押さえながら上体を起こそうとしていた。
「だれ……簾さん……?」
呼ばれたのは、俺の名前ではなかった。
胸の奥で、短く鋭い痛みが走る。
その声があまりにも弱くて、必死で、簾に縋っていることが胸を切り裂くように伝わってくる。
ベッドの向かい側、棚を触っていた簾が、こちらを振り返った。
その顔はまるで邪魔者でも見たような、静かすぎる微笑を浮かべていた。
「……来たんですね、宝坂さん」
声は柔らかく、丁寧で、それでいて底に濁った光があった。
俺はまっすぐ簾を見据える。
「莉珠を連れて帰る」
低く、無理やり抑えながらの声が喉から出た。
簾は莉珠のそばに歩み寄ると、子どもでもあしらうように、わざとゆっくりとベッドの端に腰を下ろした。
「心配する気持ちはわかりますけど……。彼女は今、とても不安定なんです。刺激しないでいただけますか?」
俺は一歩近づいて言葉を放つ。
「莉珠にとって害悪はおまえだ。薬に手を加えて、弱らせた」
簾の目が一瞬だけ揺れて、莉珠を見た。
莉珠は意識があいまいなのか、俺が何を言ったのかよくわからないという顔をしていた。
簾はそんな莉珠を確かめて、すぐに薄く笑みを浮かべる。
「ずいぶんな言葉ですね。俺はずっと莉珠を看病してきました。あなたとは違って」
「しらばっくれるな」
「自分のしたことがわかってないのはあなたでしょう? だって、惣一さん――あなたは、莉珠を手放したでしょう?」
その一言で、胸の奥が凍りつく。
あの日、莉珠が自分を穢れていると言って傷つけた夜のことを思い出す。
抱きしめたくても、できなかった。彼女を壊さないために手を離した。
……あの選択を、この男は嗤っているのだ。
「莉珠に必要なのは、ずっとそばにいてくれる存在だ。俺はそれに応えて、莉珠は俺を選んでくれた」
「依存させて、無理やり取り付けた婚約にどんな意味がある」
低く言うと、簾は笑ったまま首を傾ける。
「一度も迎えに来なかった人が何を言う? 弱って壊れそうな子を、手放したままにして」
息を呑む気配が、ベッドから聞こえた。
莉珠が、俺と簾の顔を交互に見ている。
恐怖と混乱が混じった、あの夜の泣き腫らした目に似ていた。
「……な、に……やめ、簾さん、こわいよ……!」
莉珠は簾に手を伸ばして、簾はその手をからめとる。
「大丈夫だよ、莉珠。こわくない。俺がこの人を追い払ってあげるから」
俺は一度息を吐き、莉珠を見た。
「……俺を憎んでもいい。でも、自分のために思い出してくれ。……莉珠、いつからおまえの喘息はひどくなった?」
「ぜん、そく……?」
「療養施設から退院して、薬を増やさなかったか? 清陀記念病院で呼吸器科にかかってから、悪化したんじゃないか?」
それだけ言って、簾へ視線を戻す。
「簾。おまえのしてきたことは、すべて調べがついている」
簾の笑みにじわりとした恐れがにじむ。
「薬に混ぜた成分、タイミング。担当医の証言もある。……おまえが、莉珠の薬を入れ替えていた」
「……そんな証拠はない」
「彼に事実を伝えたのは私です。清陀」
戸口から静かな声がかかって、簾の表情が豹変した。
藍紀は、宗家の後継ぎとして冷たい秩序をまとってそこに立っていた。
「私は医師です。患者を治すのが治療。「好きな人間を弱らせて縛る」ような行為を許すわけにはいかない」
「く……!」
簾の目が濁り、ふいに感情があふれた。
「じゃあ聞かせてくださいよ、惣一さん。あなただって莉珠に好意を持っていただろう。……兄なのに、触れようとしたんじゃないか?」
莉珠が凍り付いたように息を止めた。
簾の言葉は、狂気じみた正確さだった。純度の高い劣等感と渇望で燃えていた。
莉珠はたぶん記憶の狭間に感じるところがあったのだろう。がくがくと震える莉珠に、俺は胸が痛んだ。
簾は、幼い子どもが泣き叫ぶように続けた。
「何度も思ったんですよ……俺じゃダメなのか。惣一と俺の何が違う? だから繰り返し莉珠に手を差し伸べた。けどどれだけ優しくしても……莉珠はあなたを家族だと言うのをやめなかった……!」
簾の声が震えて、ぐっと低くなる。
「だから……だから弱ってくれれば……。俺しか寄りかかれないくらい弱ってくれれば、俺を見てくれると思った……!」
莉珠がひぐっと息を呑む気配がした。その手はまだ簾をつかんでいる。
俺は簾をまっすぐに見て言った。
「簾。おまえが莉珠を愛していたのはわかった」
簾がはっとこちらを見る。
俺は燃えるような意思をこめてにらみつける。
「——だから、莉珠の身体を壊すのか。それで莉珠は、笑えるようになるのか?」
簾は唇を震わせた。
肩が沈み、目の光が消えていく。
「……違う……元気になったら……」
「莉珠の心が不安定になるたび、莉珠を傷つける? ……そんなのは愛じゃない。ただの支配だ」
しばらくの沈黙が流れた。
やがて椅子がわずかに軋み、簾は苦しそうに莉珠を振り向いた。莉珠はまだ震えたまま、簾をみつめる。
「簾さん……?」
「子どもの頃から、ずっと憧れてた。……君は宝坂邸の真珠みたいに、凛として、きれいだった」
簾の目から、つうっと涙が落ちる。
「もしも、と考えた。もしも俺が君と兄妹のように育ったら。俺も極道、惣一も極道。大して変わりはないだろう? 真綿で包むみたいに育てて、やがては家族以上に親しんで……そんな、夢を見た」
簾はしぼんだ声で話して、ふいに首を横に振る。
「でも惣一は君を傷つけないために、手を離した。俺には一生できないだろうと思っていたけど……俺だって、君に笑ってほしいから」
簾はゆっくりと莉珠の手を離して、立ち上がる。
そして戸口に歩み寄る直前、莉珠が声を上げる。
「……簾さん、は」
莉珠は肩で息をしながら、懸命に言う。
「わたしの……もう一人の、兄です。そばにいてくれて……ありがとう」
その言葉にくしゃりと顔を歪めて、簾は藍紀と共に病室から出ていった。
扉が閉まった瞬間、俺は莉珠をみつめていた。
ゆっくりと歩み寄って、ベッド脇に膝をつき、そっと手を握る。
「……遅くなって、悪かった」
揺れる莉珠の瞳に、俺の姿が小さく映った。
「思い出せなくたって構わない。離れていても思っている。けど、今は少しわがまま言っていいか」
そう口にした瞬間、ずっと凍り付いていた時間がようやく動き出した気がした。
「俺と帰ろう、莉珠」
小さく頷いた彼女の指を、二度と離したくないと願いながら。
俺はもう一度、これ以上なく大切なその手を包んで、泣き笑いのように笑った。