リシェル・ベッカーが消えた日〜破滅と後悔はすぐそこに〜
がちゃん!と嫌味を込めてカップをソーサーに叩きつける。辺りに紅茶が飛び散ったり、エミリが驚いた顔を見せたので少し反省したが、今はリシェルだ。
ベンジャミンは見下してくるリシェルに向かって告げる。
『口を開けば領民、領民……君は領民のことしか心配しないんだね。僕はこんなにも君のことを想っているのに』
『私は領民もあなたも大切です。一度たりとも無下に思ったことは――』
『もういいよ! せっかくのお茶が台無しだ』
これ以上は埒が明かないととして、ベンジャミンはエミリの手を取って立ち上がった。
『ベ、ベンジャミン様、お姉様とお話は……』
『エミリ嬢との時間を邪魔されてまで、こんなくだらない話をする必要はない。――リシェル、僕は君の小言を聞くために婚約者になったわけじゃないよ。君のギルバート公爵夫人の座は確定なんだ。もう少し気を抜いて、楽をしたほうがいいんじゃないかい?』
そう言った瞬間、リシェルは眉間に皺を寄せた。怒りというより、呆れにも見えた表情だったが、ベンジャミンは得意げに鼻を鳴らす。
『そもそも、自分が領主になれないからって、僕に理想を求めすぎなんだよなぁ。領主になったら遊べないし、四六時中机に向かう仕事は僕には合わないのだってわかっているだろう』
借用書の件だって、エミリにおねだりされたプレゼントを買うために少しばかり借りただけだ。返済期限は一年もないが、領民から徴収する額を上げ、その一部を少しずつ自分の懐に入れて返していく手筈だ。
(僕は公爵家との架け橋を率先して行っているだけだ。未来の義妹と仲良くなったら誰だってだって嬉しいはず。堅物なリシェルにはわからないだろうけど!)
『ベンジャミン様……私のことを、ずっとそう思っていたのですか?』
室内に戻ろうとすると、リシェルの声に足を止める。
振り返ってみると、リシェルの翡翠の瞳が揺れているような気がして、それを見た途端にベンジャミンは久々に優越感を得た。
あのリシェルが、今までずっと見下してきたリシェルが、自分の言動で傷つき、泣きそうになっている!
『そうだよ。領地のことは君が一番わかっているじゃないか。適材適所、まさしくその言葉通りにやっていこうよ。僕の仕事は、ただ判子を押すだけさ』
『……承知いたしました』
今にも消え入りそうな声に、ベンジャミンは勝ったと思った。巷では女なのに宰相になった者も現れたと聞くが、やはり男には敵わない。これでしばらくは大人しくなるだろう、そう頷いてエミリを抱き寄せる。
『エミリ嬢、僕はこれで失礼するよ。今日は楽しかった。また話し相手になってくれると嬉しい』
『は、はい……私でよければ』
エミリは頬を赤く染めて、恥ずかしそうに視線を逸らす。
(これくらいリシェルも可愛げがあったらなぁ)
『――ベンジャミン様』
エミリに鼻の下を伸ばすベンジャミンに、後ろからリシェルが言う。
『僭越ながら、私はすべてを知っています。自分の思い通りになるというその傲慢が、この先もずっと続くと思わないでください』
『はぁ……ッ!?』
舐めた口を、ともう一度怒鳴りつけようと振り返ると、ベンジャミンは思わずひゅっと息を呑んだ。
不敵な笑みを浮かべ、淡く光を帯びた翡翠の瞳に気圧され、まるで勝てない相手に喧嘩を売ったかのような錯覚に陥った。