リシェル・ベッカーが消えた日〜破滅と後悔はすぐそこに〜
見れば、正面に座るギルバート公爵が自身の拳をテーブルに叩きつけていた。豪華な装飾がされた木製のテーブルの表面にヒビが入るほどの力だったらしい。
普段は温厚な公爵の冷徹な一面に、ベンジャミンは顔を真っ青にし、エミリはビクッと肩を震わせた。
「リシェル嬢の生死はともかく、ベンジャミンの言い分も、エミリの優先順位もよくわかった。これ以上、お前達に領地を任せられない」
「ち、父上? 何を――」
「我がギルバート公爵家は今から三か月後、爵位を返上する。領地はすでに後任のアーヴェンヌ公爵家と話を進めておる。それまでに荷物の整理をしておけ」
反論は認めないと睨みをっかせた公爵が力強く告げると、ベンジャミンとエミリは目を見開いた。空いた口が塞がらない。聞き間違いでなければ、それはギルバート公爵家の没落を意味している。
震える声色でベンジャミンが問う。
「爵位を、返上……? 本気ですか? ご自身が何を言っているのか、わかってそのようなことを!?」
「ああ、わかっているさ。ベンジャミン、私は今日まで先代から引き継いだ領地をどうやって豊かに暮らせる場所にできるか、ずっと考えてきた。自分ができることはすべてやってきたつもりだ。レニンを使った加工品が売れるようになって、よりレニンの増産だって力を入れてきた! リシェル嬢の知恵を借りたのも、ベッカー伯爵からの縁談を受け入れたのも、すべてはこの領地に住まう領民のため! ……それをお前はなんだ? 家同士の断れない結婚に同意してくれたリシェル嬢の思いを無下にしただけでなく、レニンの製造レーンを他国へ売り込むなどと馬鹿げた提案をされた時は心底呆れたぞ! 徴収した金の一部を懐に入れていたのだって、災害で苦しむ領民達を見捨て自分の娯楽と身の保身しか考えていないではないか! そんな領主に皆がついてくると、本当に思っているのか?」
「そ、それは……その……」
「懐に……って、待ってください、どういうことですの!?」
割って入るつもりはなかったが、公爵の言葉にエミリが思わず声を上げた。
先日明らかになった徴収税の一部を着服していた件について、領民への対応に追われていたこともあってエミリへの追求は後手に回ってしまっていた。
事実を知ったエミリは、ベンジャミンが着服していた金で自分の我儘を叶えていたと知ると、一気に血の気が引いた。
「私、何も知りませんわ! まさかベンジャミン様がそんな外道なことをしていたなんて……! 私は無関係です!」
「待ってくれよ、エミリ。君だって同罪じゃないか。僕が君の好きなものを買い与えてあげたから、何不自由ない生活が送れている。すべて君のためにしたことなんだよ!」
「――やはり、あなた達は何もわかっていないのですね」
先程まで顔を伏せていた公爵夫人も顔を上げていた。覚悟を決めたような、厳格な態度で茫然とする二人に続ける。
「この件はすでに国王陛下にも了承済みです。私達は爵位を返上後、平民として田舎へ移り住むわ」
「母上! アーヴェンヌ家に我が領の収入源を奪われてもよいのですか!?」
「奪われるのではありません、託すのです。アーヴェンヌ家は隣国の薬草研究所と連携を取っています。その研究所が、レニンの特性が特効薬に利用できるかもしれないから分けて欲しいと、先日交渉にきました。その時にはすでに、旦那様と隠居を相談していたところでしたので、よいタイミングでした」
「そんな……跡継ぎである僕のことは考えなかったのですか!」
「もちろん考えました。あなた達には親戚の伯爵領に移っていただきます。辺境伯領に近いですが、生活するには困らないでしょう」
「ちょ、ちょっと待ってください! デモが起きても領民を説得できたのだし、このままリシェルが帰ってくれば――」
「痴れ者が、まだわからんのか!」
「ヒィッ!」
鼓膜を突き破るのではないかと思うほどの怒号に、ベンジャミンはソファからずり落ちた。
「我が息子ながら恥ずかしい……領民を説得しに私達が行っている間、貴様は何をしていた!? ベッカー伯爵に何を頼もうとしたのかは知らんが、目の前の領民に頭を下げるどころか見下している貴様に、上に立つ資格はない!」
「横暴すぎる! 僕はギルバート家の次期当主ですよ!?」
「もう貴族ではなくなるのだから、そんなものに縋る必要はないだろう」
親子同士での言い争いが激化する一方で、エミリは公爵の言葉を飲み込むのに精一杯だった。
(ギルバート家もベッカー家も、貴族ではなくなる……?)
爵位を返上するということは、貴族から平民の身分になる。仮に伯爵領に移り住み、新たな爵位を承ったとしても今まで通りの生活は到底難しいだろう。
(どうしてこうなってしまったの? 私の夢は、叶わないの?)
ベンジャミン達が言い争う声が遠く聞こえる。周囲の音も入ってこない。
(私はもう、幸せになれないの?)
――その時、脳裏に彼女の姿がよぎった。亜麻色の髪をなびかせ、翡翠の瞳でエミリを見据える。
『私はすべてを知っているわ、エミリ。欲しがるばかりでは何も得られないのよ』
「――いや……いやあああ!」
思い出したくない、思い出したくない。あの人のことなんて思い出したくない!
脳裏に流れてきた過去の記憶に、エミリは頭を抱えて塞ぎ込んだ。そしてそのまま、意識が遠のいていった。