リシェル・ベッカーが消えた日〜破滅と後悔はすぐそこに〜
◇
『エミリ、学園内でありもしない私の嘘を広げるのはやめて』
エミリとリシェルが学園に在籍していた頃。迎えにきた同じ馬車に乗り込むと、開口一番にリシェルが忠告した。
リシェルの母親の形見であるエメラルドの指輪を巡っては、今までも何度か口論が起きている。しかし今回は自室に忍び込んでまで盗もうとしていたことが発覚し、平常を保っていたリシェルがとうとう我慢が限界に達し、厳重に注意した。
それを面白く思わなかったエミリは、腹いせにリシェルの悪評を流したのだ。噂はルーカス本人にも届き、リシェルは嫌悪感をあらわにした。
『私が王太子の愛人だと悪い噂を流したそうだけど、ルーカス殿下には懇意にされている公爵令嬢がいらっしゃるし、二人の仲睦まじい様子は学園内外で目撃されているわ。すぐにわかるくだらない嘘をついて、どういうつもり? あなたのしていることは、ルーカス殿下にも迷惑をかけているのよ』
『どうなるかなんてわからないじゃない。ルーカス殿下に見初められたら、お姉様はベンジャミン様から乗り換えることだってできるもの、そもそも、お姉様は自分の婚約者を放ったらかしすぎなのよ。いつも気にかけて大切にしてくれる、優しい人なのに……』
『それは……今は学業を優先したほうがいいと、ベンジャミン様からのお達しで』
『内心はとっても寂しがっているのよ! ああ、可哀想なベンジャミン様……そうだ! それならエミリにくださる? 私なら、ベンジャミン様に喜んでもらえるだろうし、満足させてあげられる。未来の公爵夫人なんてとっても素敵!』
『……エミリ、それは本気なの?』
その言葉に、リシェルは眉をひそめた。
エミリは今までも、リシェルのものを羨ましがった。お下がりだけでなく、新調したドレスや装飾をすべて横取りしては自分のものにしてしまう。
何を今さら、とエミリは言いたげだが、今回は勝手が異なる。ましてや、リシェルとベンジャミンは両家のための政略結婚に基づいた婚約。一歩間違えれば、両家の仲を引き裂きかけない。
『私はお姉様よりも可愛いもの。婚約者は可愛いほうが見栄えがするし、指輪だって引き出しにしまいっぱなしではなく、美しい私に身につけてもらったほうがきっと喜ぶわ! 叔母様の形見か知らないけど、ダイヤモンドよりも安いエメラルドに価値はないもの。私には劣るけど、映える小道具程度にはなるでしょう。ね、そうしましょう?』
『……そう、エミリ。あなたにとって婚約者という肩書も指輪も、すべて玩具と同等なのね』
ヘラヘラと嘲笑うエミリは、今まで聞いたことがないほど低く、怒りのこもったリシェルの声色にハッとした。
リシェルは幼い頃から表情が乏しい。喜んでいても、悲しんでいても、翡翠の瞳はまっすぐ前を向いていて、常に冷静を保っていた。そんな彼女が微笑みもせず、泣きそうに顔をしかめることもせず、ただ自分を見据えて声色だけで諭してくる。
『あの指輪は父が母に渡した最初のプレゼントなの。価値がない? 二十年近く大切にしてきた想いに価値があるかどうかなんて、あなたが決めることではないわ。ベンジャミン様との結婚だって、これは両家の将来のために必要なこと。――好きなものだけに囲まれたいあなたに、貴族に生まれた令嬢の役割が務まるのかしら』
叱咤にも、皮肉に貶されているようにも聞こえる言葉を淡々と告げるリシェルに、どう返せばいいのかエミリは言葉を詰まらせた。
重い空気が漂う中、馬車が停まった。どうやらベッカー邸に到着したらしい。
ドアが開かれるとリシェルが先に降りた。彼女の気迫に圧倒されていたエミリは、座席から動くことができない。
すると、リシェルが振り返った。翡翠の瞳が輝き、亜麻色の髪が揺れる。
『私はすべてを知っているわ、エミリ。欲しがるばかりでは何も得られないのよ』
その一瞬の出来事はまるで、儚くて美しい、呪いのようだとエミリは思った。
『エミリ、学園内でありもしない私の嘘を広げるのはやめて』
エミリとリシェルが学園に在籍していた頃。迎えにきた同じ馬車に乗り込むと、開口一番にリシェルが忠告した。
リシェルの母親の形見であるエメラルドの指輪を巡っては、今までも何度か口論が起きている。しかし今回は自室に忍び込んでまで盗もうとしていたことが発覚し、平常を保っていたリシェルがとうとう我慢が限界に達し、厳重に注意した。
それを面白く思わなかったエミリは、腹いせにリシェルの悪評を流したのだ。噂はルーカス本人にも届き、リシェルは嫌悪感をあらわにした。
『私が王太子の愛人だと悪い噂を流したそうだけど、ルーカス殿下には懇意にされている公爵令嬢がいらっしゃるし、二人の仲睦まじい様子は学園内外で目撃されているわ。すぐにわかるくだらない嘘をついて、どういうつもり? あなたのしていることは、ルーカス殿下にも迷惑をかけているのよ』
『どうなるかなんてわからないじゃない。ルーカス殿下に見初められたら、お姉様はベンジャミン様から乗り換えることだってできるもの、そもそも、お姉様は自分の婚約者を放ったらかしすぎなのよ。いつも気にかけて大切にしてくれる、優しい人なのに……』
『それは……今は学業を優先したほうがいいと、ベンジャミン様からのお達しで』
『内心はとっても寂しがっているのよ! ああ、可哀想なベンジャミン様……そうだ! それならエミリにくださる? 私なら、ベンジャミン様に喜んでもらえるだろうし、満足させてあげられる。未来の公爵夫人なんてとっても素敵!』
『……エミリ、それは本気なの?』
その言葉に、リシェルは眉をひそめた。
エミリは今までも、リシェルのものを羨ましがった。お下がりだけでなく、新調したドレスや装飾をすべて横取りしては自分のものにしてしまう。
何を今さら、とエミリは言いたげだが、今回は勝手が異なる。ましてや、リシェルとベンジャミンは両家のための政略結婚に基づいた婚約。一歩間違えれば、両家の仲を引き裂きかけない。
『私はお姉様よりも可愛いもの。婚約者は可愛いほうが見栄えがするし、指輪だって引き出しにしまいっぱなしではなく、美しい私に身につけてもらったほうがきっと喜ぶわ! 叔母様の形見か知らないけど、ダイヤモンドよりも安いエメラルドに価値はないもの。私には劣るけど、映える小道具程度にはなるでしょう。ね、そうしましょう?』
『……そう、エミリ。あなたにとって婚約者という肩書も指輪も、すべて玩具と同等なのね』
ヘラヘラと嘲笑うエミリは、今まで聞いたことがないほど低く、怒りのこもったリシェルの声色にハッとした。
リシェルは幼い頃から表情が乏しい。喜んでいても、悲しんでいても、翡翠の瞳はまっすぐ前を向いていて、常に冷静を保っていた。そんな彼女が微笑みもせず、泣きそうに顔をしかめることもせず、ただ自分を見据えて声色だけで諭してくる。
『あの指輪は父が母に渡した最初のプレゼントなの。価値がない? 二十年近く大切にしてきた想いに価値があるかどうかなんて、あなたが決めることではないわ。ベンジャミン様との結婚だって、これは両家の将来のために必要なこと。――好きなものだけに囲まれたいあなたに、貴族に生まれた令嬢の役割が務まるのかしら』
叱咤にも、皮肉に貶されているようにも聞こえる言葉を淡々と告げるリシェルに、どう返せばいいのかエミリは言葉を詰まらせた。
重い空気が漂う中、馬車が停まった。どうやらベッカー邸に到着したらしい。
ドアが開かれるとリシェルが先に降りた。彼女の気迫に圧倒されていたエミリは、座席から動くことができない。
すると、リシェルが振り返った。翡翠の瞳が輝き、亜麻色の髪が揺れる。
『私はすべてを知っているわ、エミリ。欲しがるばかりでは何も得られないのよ』
その一瞬の出来事はまるで、儚くて美しい、呪いのようだとエミリは思った。