リシェル・ベッカーが消えた日〜破滅と後悔はすぐそこに〜
 ◇

「――リシェル、君との婚約を破棄したい」

 翌日、被害にあった領地の今後の対策案をまとめ終えたリシェルが、資料を入れたトランクを持ってギルバート公爵邸へやってくると、応接の間でベンジャミンや公爵夫妻、そして思いもよらぬ先客が待ち構えていた。
 何事かと目をぱちくりさせたが、鼻で嘲笑いながらベンジャミンが切り出した発言に、リシェルは耳を疑った。
 婚約破棄? 家が決めたことなのに、と。

「ベンジャミン様、いきなり何をおっしゃるのですか……?」
「僕は君にずっと前から幻滅していたんだ。仕事ばかりして、僕との時間を作らなかったじゃないか。それはつまり、君は自分さえよければ家のことなどどうでもいいと言っているのと変わらない。違うかい?」

 意気揚々とベンジャミンが語る一方で、公爵夫妻は申し訳なさそうに顔を逸らしている。今までリシェルがギルバート家に尽くしてきたことを十分理解しているのはこの二人だ。

(わかったうえで目を逸らした、ってことかしら)

 となると、原因はなぜか同席しているこの先客か。

「そんな怖い顔をしないで、リシェルお姉様。私だって悲しいのです。お姉様とベンジャミン様の結婚式をずっと楽しみにしていましたのよ」

 甘ったるい声で今にも泣きそうに瞳を揺らすのは、従妹であるエミリだ。その隣には伯父でありベッカー家当主のフランクが、冷めた目でリシェルを睨みつけている。
 今日は二人とも用事があると言って、リシェルより先に屋敷を出ていた。行き先など教えてくれるはずもなかったから、まさかここにいるとは思ってもみなかった。

「エミリ、フランク伯父様……どうしてここに?」
「どうしても何も、ご令息から大切な話があると聞いてきたんだ。驚いたよ、まさかエミリがご令息の子を身籠っているなんてな」
「……なんですって?」

 目を見張ると、エミリがそっと自分の腹部に手を置く。それに合わせるかのようにベンジャミンも手を重ねた。

「リシェル、僕はとっても寂しかった。君が優秀すぎるが故、僕は相手にされない。君はずっと僕を見下していたんだろう?」
「そんな! 私は一度たりともベンジャミン様を――」
「今さら婚約者面をしないでくれ。君は僕よりも自分の欲を優先して気付かないフリをしていた。……そんな僕の孤独をエミリが埋めてくれた、大切な人なんだ」
「お姉様ごめんなさい! ベンジャミン様がお姉様の婚約者だとわかっていても、止められなくて……でもこのお腹に宿った子に罪はないわ!」
「エミリが謝る必要はない。僕が愛してしまったから……いや、政略結婚なんてものが存在する世の中が悪いんだ! リシェル、わかってくれるよね。僕らの真実の愛がどれだけ深く、美しいものか!」

 周囲を放ったらかして、ベンジャミンとエミリは二人だけの世界に入っていく。

(……どうでもいいわ)

 一方で、リシェルは自分でも驚くほど冷静に思考を巡らせていた。
 エミリの腹部は未だ目立った様子はないが、身籠ったことを公にしたということは、三ヶ月程度は経っているということ。
 リシェルは心底呆れた。貴族としての責務を放ったらかし、真実の愛などと抜かす者がこんなに近くにいるなんて、と。
 婚約者として少なからず想いを寄せようとしていた相手が、まさにその片割れだったと理解すると、自分の中でスッと冷めていくのを感じた。

(二人の関係はともかく、同じ屋敷に住んでいたのにエミリの妊娠に気付かなかった……いいえ、気付けるわけがないわね)

 ベッカー邸はそれなりの広さはあるが、フランクとエミリが来てからというものの、リシェルは幼い頃から使っていた自室を追い出され、日の当たらない物置が自室になっていた。食事も団らんの時間も、同じ空間にいるのが嫌なようで、屋敷にいても顔を合わせないことが多い。
 王立図書館の職員になった時に寮に入ることを検討したが、世間体を気にするフランクによって拒否され、実家から通わざるを得なかった。ベンジャミンにも引き止められていたが、彼の場合はエミリに会う口実に使っていただけだろう。
 フランクを見れば、興味なさそうな顔をしながらも「いいじゃないか」と同意する。

「公爵殿、この婚約は私から持ちかけたものですが、エミリでもリシェルでもどちらでもよかったのです。まだ籍を入れていない今なら、公になる前に被害は最小限に留められます」
「し、しかし……私達はリシェル嬢を……」
「リシェルはただの本の虫。職場ではちやほやされているようですが、見目や社交界ではエミリに劣ります。そしてエミリが身籠ったのはギルバート公爵家の後継ぎですぞ。……悩むほどのことではありませんよ」

 脅すように声色を低くして相手を惑わす方法は、商談上手なフランクが交渉相手によく使う手だ。
 彼が紡ぐ言葉は、まるで誘惑させるような魔力が込められている。リシェルもそれに何度言い包められ、苦しんだことか。
 公爵夫妻はお互いに顔を見合い、フランクの言葉に頷くしかなかった。

「リシェル嬢、すまない……」

 申し訳なさそうな顔で告げられた言葉に、リシェルはようやく気付いた。
 婚約者や家族は、ずっと形ばかりでしかなかったことを。
 ベンジャミンもエミリもフランクも、確実に自分の居場所を失くし、両家から追い出そうとしていることを。
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