恋のリハーサルは本番です
第9話 すれ違う二人のアドリブ
翌日の稽古場。
昨日の“アクシデントキス”が嘘のように、蓮とあかりはいつも通りの表情を装っていた。
装っていた──そう、自分でもわかっている。
どちらも、心のどこかでまだ動揺を引きずっていた。
「桜井、昨日の感情の流れ、もう一度確認しておけ」
演出家の佐藤が指示を飛ばす。
「はい」
蓮は真剣な表情で頷く。
けれど、その声には微かな硬さがあった。
あかりは、モニター越しに彼の姿を見つめる。
まっすぐな演技。完璧な台詞回し。
でも、どこか“昨日の彼”とは違って見えた。
(少し……距離を取ってる?)
気のせいかもしれない。
けれど、あかりの胸の奥でざらりと不安が広がった。
稽古が終わると、他の役者たちはぞろぞろと帰っていく。
残ったのは、台本の修正をするあかりと、片付けをしている蓮だけ。
「あの、昨日の件……」
蓮が口を開いた。
「昨日の件?」
あかりはペンを止める。
「その、アクシデントのことです」
「ああ……気にしてませんよ」
「……本当ですか?」
「本当です」
そう言いながらも、あかりは画面を見つめたまま。
視線を合わせようとしない。
「じゃあ、よかったです」
蓮が笑う。けれど、それもどこかぎこちない。
沈黙。
キーボードの音が、やけに大きく響いた。
カチ、カチ、カチ。
やがて、あかりがぽつりと呟いた。
「……演技、上手くなりましたね」
「え?」
「最初の頃よりずっと自然で。感情の入り方も、セリフの間の取り方も、完璧で」
「ありがとうございます。あかりさんのおかげです」
「違います。蓮さん自身の力です」
言葉は優しいのに、なぜか少し寂しげだった。
「でも……」
「でも?」
「最近の蓮さん、ちょっと“芝居っぽい”んです」
「芝居っぽい?」
「うん。たぶん、完璧すぎるから。昨日までの“揺れ”が、消えちゃった感じ」
あかりの声は穏やかだったけど、核心を突いていた。
蓮は黙り込む。
(たしかに……昨日、あかりさんと目を合わせられなくなってた)
意識すればするほど、演技に“心”が入らない。
演じているのに、嘘みたいに思える。
あかりの前だと、演技と現実の境界が曖昧になる。
「すみません。気をつけます」
「違う、責めてるわけじゃないの。ただ……」
あかりは少し言葉を選ぶように、パソコンの画面から目を離した。
「蓮さんには、“計算されてない言葉”が似合うから」
「計算されてない言葉……?」
「うん。アドリブみたいな。台本にない優しさ、っていうか」
その言葉に、蓮の胸が静かに鳴った。
(台本にない……言葉)
それは、昨日の事故のあとに交わしたぎこちない会話のことを思い出させた。
あのとき、台本なんてなかった。
それでも、心が勝手に動いて、あかりを見ていた。
「……俺、あかりさんの言葉も、台本みたいに信じてました」
「え?」
「“恋愛リサーチ”のとき、教えてくれたこと。
嬉しかったです。全部、本物みたいで」
あかりの心臓が跳ねた。
(“本物みたいで”……)
でも、その“みたいで”という一言が、胸に小さな棘を刺した。
「……“みたい”じゃなくて、本物だったらいいのにね」
小さく、笑って言った。
それは冗談のようで、ほんの少しの本音が混じっていた。
蓮は何も言えなかった。
ただ、沈黙の中で二人の間に流れた空気だけが、すれ違うように震えていた。
外は、春の雨。
窓ガラスを打つ音が、静かに夜を包む。
二人はそれぞれの帰り道で、同じことを考えていた。
──どうして、うまく言葉にできないんだろう。
──どうして、こんなに胸が痛いんだろう。
恋のリハーサル。
それはもう、誰も止められない“本番”に近づいていた。
昨日の“アクシデントキス”が嘘のように、蓮とあかりはいつも通りの表情を装っていた。
装っていた──そう、自分でもわかっている。
どちらも、心のどこかでまだ動揺を引きずっていた。
「桜井、昨日の感情の流れ、もう一度確認しておけ」
演出家の佐藤が指示を飛ばす。
「はい」
蓮は真剣な表情で頷く。
けれど、その声には微かな硬さがあった。
あかりは、モニター越しに彼の姿を見つめる。
まっすぐな演技。完璧な台詞回し。
でも、どこか“昨日の彼”とは違って見えた。
(少し……距離を取ってる?)
気のせいかもしれない。
けれど、あかりの胸の奥でざらりと不安が広がった。
稽古が終わると、他の役者たちはぞろぞろと帰っていく。
残ったのは、台本の修正をするあかりと、片付けをしている蓮だけ。
「あの、昨日の件……」
蓮が口を開いた。
「昨日の件?」
あかりはペンを止める。
「その、アクシデントのことです」
「ああ……気にしてませんよ」
「……本当ですか?」
「本当です」
そう言いながらも、あかりは画面を見つめたまま。
視線を合わせようとしない。
「じゃあ、よかったです」
蓮が笑う。けれど、それもどこかぎこちない。
沈黙。
キーボードの音が、やけに大きく響いた。
カチ、カチ、カチ。
やがて、あかりがぽつりと呟いた。
「……演技、上手くなりましたね」
「え?」
「最初の頃よりずっと自然で。感情の入り方も、セリフの間の取り方も、完璧で」
「ありがとうございます。あかりさんのおかげです」
「違います。蓮さん自身の力です」
言葉は優しいのに、なぜか少し寂しげだった。
「でも……」
「でも?」
「最近の蓮さん、ちょっと“芝居っぽい”んです」
「芝居っぽい?」
「うん。たぶん、完璧すぎるから。昨日までの“揺れ”が、消えちゃった感じ」
あかりの声は穏やかだったけど、核心を突いていた。
蓮は黙り込む。
(たしかに……昨日、あかりさんと目を合わせられなくなってた)
意識すればするほど、演技に“心”が入らない。
演じているのに、嘘みたいに思える。
あかりの前だと、演技と現実の境界が曖昧になる。
「すみません。気をつけます」
「違う、責めてるわけじゃないの。ただ……」
あかりは少し言葉を選ぶように、パソコンの画面から目を離した。
「蓮さんには、“計算されてない言葉”が似合うから」
「計算されてない言葉……?」
「うん。アドリブみたいな。台本にない優しさ、っていうか」
その言葉に、蓮の胸が静かに鳴った。
(台本にない……言葉)
それは、昨日の事故のあとに交わしたぎこちない会話のことを思い出させた。
あのとき、台本なんてなかった。
それでも、心が勝手に動いて、あかりを見ていた。
「……俺、あかりさんの言葉も、台本みたいに信じてました」
「え?」
「“恋愛リサーチ”のとき、教えてくれたこと。
嬉しかったです。全部、本物みたいで」
あかりの心臓が跳ねた。
(“本物みたいで”……)
でも、その“みたいで”という一言が、胸に小さな棘を刺した。
「……“みたい”じゃなくて、本物だったらいいのにね」
小さく、笑って言った。
それは冗談のようで、ほんの少しの本音が混じっていた。
蓮は何も言えなかった。
ただ、沈黙の中で二人の間に流れた空気だけが、すれ違うように震えていた。
外は、春の雨。
窓ガラスを打つ音が、静かに夜を包む。
二人はそれぞれの帰り道で、同じことを考えていた。
──どうして、うまく言葉にできないんだろう。
──どうして、こんなに胸が痛いんだろう。
恋のリハーサル。
それはもう、誰も止められない“本番”に近づいていた。