恋のリハーサルは本番です
第141話 線の向こう側
稽古は、予定より早く終わった。
演出家・佐藤の「今日はここまで」の声に、空気が一気に緩む。
俳優たちが小さく伸びをし、荷物をまとめ始める中、桜井蓮は舞台上に残っていた。
(……あかりさん)
客席最前列。
台本を膝に置いたまま、ペンを動かしていない。
珍しい。
いつもなら、誰よりも早くメモを取り、修正点を整理しているのに。
今日は、ただ舞台を見つめていた。
「……あの」
気づけば、声をかけていた。
水無月あかりは、少し驚いたように顔を上げる。
「あ、桜井さん。お疲れさまです」
その笑顔は、いつも通り。
でも──どこか、薄い。
「何か、気になるところありました?」
“脚本家として”の問いかけ。
仕事の距離。
「……いえ」
蓮は、言葉を選ぶ。
「さっきのシーン、間の取り方」
「ああ……」
あかりは目を伏せ、台本を閉じた。
「大丈夫でした?」
「……はい」
でも、それだけじゃない。
沈黙が落ちる。
その沈黙を、いつもなら彼女が破る。
なのに、今日は違った。
(……疲れてる?)
そんな、ありきたりな心配が浮かんだ瞬間。
あかりの肩が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
誰も気づかないほど。
でも、蓮は見てしまった。
「……水無月さん?」
名前を呼んだとき。
“脚本家”ではなく、“人”として。
あかりは、少し困ったように笑った。
「……大丈夫です」
その言い方が、あまりにも弱かった。
「大丈夫じゃない人が言うやつですよ、それ」
自分でも驚くほど、柔らかい声が出た。
あかりは、一瞬だけ目を見開き──
それから、視線を逸らす。
「……書けなくなるとき、あるんです」
ぽつり。
「感情が、邪魔して」
蓮の胸が、静かに音を立てた。
「脚本家としては、失格ですよね」
自嘲気味な笑み。
(違う)
そう言いかけて、飲み込む。
代わりに、ゆっくり言った。
「……人として、だと思います」
あかりが、顔を上げる。
「人は……書けなくなるくらい、何かを大事にするときがある」
視線が、絡む。
近い。
思ったより、ずっと。
その距離で気づいてしまった。
彼女の指先が、少し冷えていること。
無意識に、台本の角を握りしめていること。
“仕事”の癖じゃない。
不安なときの、仕草。
(あ……)
胸の奥が、はっきりと形を持つ。
(俺、今まで)
脚本家を見てたんじゃない。
“安全な距離にいる人”を見てた。
でも今、目の前にいるのは──
夜に眠れなくて。
感情を抱え込んで。
それでも、誰にも頼らず立っている。
一人の女性だった。
「……水無月さん」
名前を呼ぶ声が、少しだけ震えた。
あかりは、気づかないふりをする。
「明日までに直しますね。
ちゃんと、プロとして」
その言葉が、胸に刺さる。
「……無理しないでください」
やっと、それだけ言えた。
あかりは、微笑む。
「桜井さんも」
立ち上がり、軽く会釈して去っていく。
その背中を、蓮は追わなかった。
追えなかった。
(……見てしまった)
越えてはいけない線の、向こう側。
もう、
“脚本家だから”なんて理由で、
目を逸らせない。
蓮は、深く息を吸った。
(俺は……)
この気持ちに、名前をつけてしまったら。
もう、
同じ場所には立てない。
それでも。
(それでも、見てしまったんだ)
舞台上に、一人。
主演俳優は、初めて──
本当の意味で、恋に足を踏み入れていた。
演出家・佐藤の「今日はここまで」の声に、空気が一気に緩む。
俳優たちが小さく伸びをし、荷物をまとめ始める中、桜井蓮は舞台上に残っていた。
(……あかりさん)
客席最前列。
台本を膝に置いたまま、ペンを動かしていない。
珍しい。
いつもなら、誰よりも早くメモを取り、修正点を整理しているのに。
今日は、ただ舞台を見つめていた。
「……あの」
気づけば、声をかけていた。
水無月あかりは、少し驚いたように顔を上げる。
「あ、桜井さん。お疲れさまです」
その笑顔は、いつも通り。
でも──どこか、薄い。
「何か、気になるところありました?」
“脚本家として”の問いかけ。
仕事の距離。
「……いえ」
蓮は、言葉を選ぶ。
「さっきのシーン、間の取り方」
「ああ……」
あかりは目を伏せ、台本を閉じた。
「大丈夫でした?」
「……はい」
でも、それだけじゃない。
沈黙が落ちる。
その沈黙を、いつもなら彼女が破る。
なのに、今日は違った。
(……疲れてる?)
そんな、ありきたりな心配が浮かんだ瞬間。
あかりの肩が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
誰も気づかないほど。
でも、蓮は見てしまった。
「……水無月さん?」
名前を呼んだとき。
“脚本家”ではなく、“人”として。
あかりは、少し困ったように笑った。
「……大丈夫です」
その言い方が、あまりにも弱かった。
「大丈夫じゃない人が言うやつですよ、それ」
自分でも驚くほど、柔らかい声が出た。
あかりは、一瞬だけ目を見開き──
それから、視線を逸らす。
「……書けなくなるとき、あるんです」
ぽつり。
「感情が、邪魔して」
蓮の胸が、静かに音を立てた。
「脚本家としては、失格ですよね」
自嘲気味な笑み。
(違う)
そう言いかけて、飲み込む。
代わりに、ゆっくり言った。
「……人として、だと思います」
あかりが、顔を上げる。
「人は……書けなくなるくらい、何かを大事にするときがある」
視線が、絡む。
近い。
思ったより、ずっと。
その距離で気づいてしまった。
彼女の指先が、少し冷えていること。
無意識に、台本の角を握りしめていること。
“仕事”の癖じゃない。
不安なときの、仕草。
(あ……)
胸の奥が、はっきりと形を持つ。
(俺、今まで)
脚本家を見てたんじゃない。
“安全な距離にいる人”を見てた。
でも今、目の前にいるのは──
夜に眠れなくて。
感情を抱え込んで。
それでも、誰にも頼らず立っている。
一人の女性だった。
「……水無月さん」
名前を呼ぶ声が、少しだけ震えた。
あかりは、気づかないふりをする。
「明日までに直しますね。
ちゃんと、プロとして」
その言葉が、胸に刺さる。
「……無理しないでください」
やっと、それだけ言えた。
あかりは、微笑む。
「桜井さんも」
立ち上がり、軽く会釈して去っていく。
その背中を、蓮は追わなかった。
追えなかった。
(……見てしまった)
越えてはいけない線の、向こう側。
もう、
“脚本家だから”なんて理由で、
目を逸らせない。
蓮は、深く息を吸った。
(俺は……)
この気持ちに、名前をつけてしまったら。
もう、
同じ場所には立てない。
それでも。
(それでも、見てしまったんだ)
舞台上に、一人。
主演俳優は、初めて──
本当の意味で、恋に足を踏み入れていた。