恋のリハーサルは本番です
第217話(最終話) 本番のあとで
新居は、まだ少しだけ他人行儀だった。
引っ越して一年。
段ボールはなくなり、家具も揃った。
それでも、完璧に“生活”になりきらない余白が、部屋のあちこちに残っている。
ダイニングテーブルの上には、二冊の台本。
並べて置かれているが、同じ作品ではない。
あかりは、マグカップを二つ持って戻ってきた。
「そっちは、どう?」
「……難しい」
蓮は正直に答える。
ソファに腰掛け、脚本に視線を落としたまま。
役者としての顔だが、どこか力が抜けている。
「でも、嫌いじゃない」
「それなら、よかった」
あかりは笑って、向かいに座る。
この一年で、二人は多くを“決めなかった”。
仕事の線引きも、生活のリズムも、
その都度話し合いながら、少しずつ調整してきた。
衝突がなかったわけじゃない。
だが、あの舞台の頃のように、
踏み込めずに立ち止まることは、もうない。
「ねえ」
あかりが、ふと思い出したように言う。
「舞台のとき、
私が書けなかった一行、覚えてる?」
蓮は顔を上げる。
「あれ、今なら書ける?」
少しだけ、考える。
あかりは、首を横に振った。
「たぶん、書かない」
蓮は驚かない。
「でも」
あかりは続ける。
「書かなくていいって、
ちゃんと分かった」
それは、諦めでも、逃げでもない。
書けなかったからこそ、
役者が立ち、
人生が動いた。
「……それでいいと思います」
蓮は、台本を閉じる。
立ち上がり、あかりの隣に腰を下ろす。
距離は近い。
けれど、必要以上に詰めない。
「愛してるよ、脚本家様」
からかうような口調。
でも、声は穏やかだ。
あかりは、少しだけ目を細める。
「私も、俳優様」
その言葉に、特別な意味を込めない。
肩書きでも、役割でもない。
ただ、
互いが選び続けている呼び名。
窓の外では、夕暮れが街を包んでいる。
明日も、仕事がある。
締切も、稽古も、打ち合わせも。
それでも。
この場所では、
仕事と生活が、同じ呼吸で並んでいる。
舞台でも、映画でもない。
拍手も、スポットライトもない。
けれど──
これは、確かに“本番”だ。
二人は、もう台詞を探さない。
沈黙を恐れない。
書かれなかった一行は、
これからも書かれないまま。
その余白ごと、
人生を続けていく。
引っ越して一年。
段ボールはなくなり、家具も揃った。
それでも、完璧に“生活”になりきらない余白が、部屋のあちこちに残っている。
ダイニングテーブルの上には、二冊の台本。
並べて置かれているが、同じ作品ではない。
あかりは、マグカップを二つ持って戻ってきた。
「そっちは、どう?」
「……難しい」
蓮は正直に答える。
ソファに腰掛け、脚本に視線を落としたまま。
役者としての顔だが、どこか力が抜けている。
「でも、嫌いじゃない」
「それなら、よかった」
あかりは笑って、向かいに座る。
この一年で、二人は多くを“決めなかった”。
仕事の線引きも、生活のリズムも、
その都度話し合いながら、少しずつ調整してきた。
衝突がなかったわけじゃない。
だが、あの舞台の頃のように、
踏み込めずに立ち止まることは、もうない。
「ねえ」
あかりが、ふと思い出したように言う。
「舞台のとき、
私が書けなかった一行、覚えてる?」
蓮は顔を上げる。
「あれ、今なら書ける?」
少しだけ、考える。
あかりは、首を横に振った。
「たぶん、書かない」
蓮は驚かない。
「でも」
あかりは続ける。
「書かなくていいって、
ちゃんと分かった」
それは、諦めでも、逃げでもない。
書けなかったからこそ、
役者が立ち、
人生が動いた。
「……それでいいと思います」
蓮は、台本を閉じる。
立ち上がり、あかりの隣に腰を下ろす。
距離は近い。
けれど、必要以上に詰めない。
「愛してるよ、脚本家様」
からかうような口調。
でも、声は穏やかだ。
あかりは、少しだけ目を細める。
「私も、俳優様」
その言葉に、特別な意味を込めない。
肩書きでも、役割でもない。
ただ、
互いが選び続けている呼び名。
窓の外では、夕暮れが街を包んでいる。
明日も、仕事がある。
締切も、稽古も、打ち合わせも。
それでも。
この場所では、
仕事と生活が、同じ呼吸で並んでいる。
舞台でも、映画でもない。
拍手も、スポットライトもない。
けれど──
これは、確かに“本番”だ。
二人は、もう台詞を探さない。
沈黙を恐れない。
書かれなかった一行は、
これからも書かれないまま。
その余白ごと、
人生を続けていく。


