忘却の蝶は夜に恋う

 採寸室を出ると、ノクスはアンティークな革製のソファの上に行儀良く座っていた。イスカが戻ってきたことに気づくと、傍に置いていた日傘を手に取り立ち上がる。

「待たせたね」

 ノクスは小さく頷くと、ジャケットの内側から懐中時計を取り出した。年季が入っているのか一部錆びているが、大切そうに使っている姿を見ると、彼の宝物なのかもしれない。

「もうこんな時間か」

 時計の針は昼過ぎを指している。どこかでお茶でもと思ったが、ノクスが嫌がるのは目に見えている。

 あ、とイスカは声を上げた。頭からつま先まで黒色ばかりのノクスを見ていて、ふと思い立ったのだ。

「君は夜会のために礼服を仕立てないのか? 私が見立ててあげるよ」

 そう尋ねると、ノクスは腕を組んで俯いた。

「ほんの数分しか参加しない夜会のために、金を使う必要がどこにある」

 イスカは目を瞬いた。
 たった今注文を終えたばかりのイスカのドレスは、ひと月後に開かれる夜会のためのものだ。その日は正午から皇帝の即位一年を祝う式典があり、式の後には城下町でお祭りが、夕刻からは貴族階級の人間が集まる夜会が開かれる。

 ノクスは平民だが、宰相であるエヴァンの片腕である政官だ。国を動かす立場にある彼は、嫌でも参加しなければならないのだろう。
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